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「永代経法要」
『永代経法要』について 
『永代経法要』が、令和2年2020年2月18日【月】昼席・夜席〜19日【火】昼席、光西寺にて、行われました。

講師 竹田 嘉円師【呉市 明円寺】より、尊いご法話を聞かせて頂きました。有難うございました。合掌


「皆様には、寒さの中、ようこそお参り下さり、有り難うございます。
 御講師様には、尊い仏縁を頂きまして、有り難うございました。合掌」

☆仏様のみ教え☆            【文責 住職】 
 
光雲無碍 如虚空
一切の有碍にさはりなし
 光沢かぶらぬ ものぞなき
 難思議を 帰命せよ
(現代語訳)
阿弥陀仏の光明は、大空を雲がかけめぐるように、
いかなるものにも障碍されることなく迷いの衆生を救う広大なはたらきがあるために
無碍光と呼ばれています。
また、雲は雨を降らしてあらゆる生きものをうるおすように、
光明のはたらきのうるおいを受けない人は誰一人としていません。
ですから、凡夫の心で思うことが難しいほど勝れたはたらきを具えた阿弥陀仏を
たよりとせずしてどうしておられましょうか。
 白川 晴顕師著 「浄土和讃を読む」より
 光雲無碍如虚空【こううんむげにょこくう】
 「光、雲のごとくにして無碍なること虚空のごとし」
【左訓】「光、雲のごとくしてさはりなきこと虚空のごとし」
 光沢【こうたく】
 あらゆるものに法の潤をあたえ、信心を生ぜしめる光のはたらき。
 仏の光明こうみょうが衆生を利益りやくすることをいう。
【左訓】「ひかりにあたるゆゑに智慧の出でくるなり」
 沢は潤いの意。 仏の光明がもたらす利り益やくを雨の潤いに喩えていう。 
 
 ここに「阿弥陀様の光に遇う者は、凡夫にあるはずもない智慧が出で来るのだ。」と説いてあります。
 「智慧」とは「仏様の悟り」「まこと」ということです。
 
 ご法事ということを話しのきっかけにして、永代経について話したいと思います。
 
 ご法事というのは、「年回法要」とはどういういみがあるのでしょう?
 「@亡くなられた方を偲ぶということ。A亡くなられた方を偲ぶことをご縁に、きっかけに、仏様の教えに出会わさせて頂くこと。」

 亡くなられた方を偲ぶと、色々なこととを思い出します。
 「私が死んだ時に、どんな話が出て来るんだろうか?」と思うんです。
 それは、今、私が周りの人たちと、どういう関係を持ち、どういう生き方をしているのか?
 それが問われることではないですか?
 こういうことを言われた方がおられるそうです。
 「お母さんの法事は苦にならない。お母さんは本当に私たちのことを善くしてくれたし、面倒みてくれたし、、。お母さんの法事は、させて貰いたいと思います。」
 「しかし、お父さんのご法事は嫌だ。お父さんはお母さんを困らせた人で、私達も、お父さんのご法事が嫌で、思い出したくもない。」
 極端に言えば、こういう話です。
 「亡くなられた方を偲ぶことをご縁に」ということは、実際、法事で、どういう話になるのでしょうか?
 その時に、仏様につながるような話が出て来るか?
 最近、野村克也という方が亡くなられました。話題になり、特別番組が組まれた方です。そんなことは、滅多にない事です。
 奥さんが先に亡くなられ、淋しい思いでおられましたが、この度亡くなっていかれました。
 野村克也は「考える野球」【「ID野球」→数値を重要視して、そのデータ情報に基づいてする野球】というものをされました。
 それまでは経験を基にした感覚的な野球をしていました。経験と勘に基づいて野球をやっていました。
 しかし、野村克也監督は、色々なデータ、数値を基に、数値を重要視して、そのデータ情報に基づいてする野球をされました。
 「この人はどういう野球を、今までしてきたか。」そのデータ情報に基づいて野球をするわけです。
 これと同じように法事では、「その人がどう生きたか?」ということが偲ばれるわけです。
「私が死んだ時に、法事で、どんな話が出るのかな?」と思うのです。
 周りの人が笑顔になる話が出るのかな?仏様の話が出るのかな?
 それとも、皆が苦々しい顔をして、「故人のことなんか思い出したくもない。早く帰ろうぜ。」みたいな話になるのか?
 それは、「今、周りの人とどう生きるか?」という話ですよ。
 「それを仏様の教えに尋ねていくんだ。」ということです。これが浄土真宗のご法事であります。

 涅槃会という行事があります。
 涅槃会とは、釈迦の入滅の日に行なわれる法要です。
釈迦の入滅の日は諸説ありますが、2月15日とする説が一般的です。
 涅槃はニルヴァーナの和訳で、迷いがなくなった境地を指す言葉です。
 涅槃会では、お釈迦さまが沙羅双樹の木の下で、頭を北にして西を向き、右脇を下にした姿で臥している最期の様子を描いた涅槃図を本尊として掲げ、
 釈迦さまは「あらゆるものは、うつろいやすいものである。怠ることなく精進せよ」これが最後の言葉でした。
 究極的な救いの境地を現す言葉
 涅槃はお釈迦さまの究極的な救いの境地を現す言葉です。
 迷いの火が吹消された状態、あらゆる煩悩の火が吹消され静められた状態を涅槃といいます。
 心の障害、心の汚れ、むさぼり、いかり、愚痴などを消滅することにより、究極的な安心の境地「涅槃」へと近付きます。

 説教は学校とは違います。分からんから一緒に、み教えを聞きましょう、ということです。
 「そんなことが分からないのか!分からんかったら、外に立ってろ。」という事ではありません。
 阿弥陀様とは、そういうお方ではありません。
「お前みたいな愚かな凡夫は救わない。」という事ではありません。
「愚かな凡夫だから、そのまま死んだら、愚かな凡夫の世界しか行かない。このまま死んだら、また迷いの世界で苦しむ。迷いの世界に沈んでいくんだぞ。」
 「そんな悲しい生き方は、そんな人生は、これで終わりにしようじゃないか。そういうあなただから、目を覚ましてほしいのだ。救われてほしいのだ。」
 そうおっしゃって下さるのが阿弥陀様という仏様です。
 「お前みたいなつまらん者は相手にせん。外に立ってろ。」というのが阿弥陀様ではないです。

 涅槃会とは、釈迦の入滅された日です。涅槃図という掛け軸を掛けて、お釈迦様を偲ぶわけです。
 頭を北にして西を向き、右脇を下にして亡くなられたのです。親鸞聖人も同じようにされたのです。
 頭北面西右脇に伏して、亡くなっていかれました。顔は西に向いているわけです。
 お釈迦様が亡くなられた姿に順じて、仏教徒はそのような姿で遺体を安置したらいいと言うわけです。
 実際は色々な事情でそういかないことも多いと思いますが、それは仕方ないです。
 涅槃図を見ると、お釈迦様の周りに弟子がおられますが、それだけではないのです。動物もいるのです。
 虎とか鳥とか、蛇とか、そうやって色々な動物が、涅槃図には描かれているのです。
 私が死んだ時に誰が寄って来るのかと思います。嫌な人のところへは寄って行かないですよ。
 お釈迦様は人間だけでなく、動物にも優しかったということです。動物が悲しむほどのお方がお釈迦様だったということです。
 皆に優しかった、皆のことを大事にされたのが、お釈迦様だったというわけです。だからみんなが集まって来るわけですよ。
 嫌な人の周りには集まっていかないでしょう。
 優しい人で、いつもあの人と居ると心が温まる、ほっとするとか、安心するとか、そういうお方だから、皆集ってくるわけです。
それが、そのまま仏教の教えなんです。 そういう中で、「幸せ」は作られていくんだというわけです。
 そういうことを見失うと、幸せは壊れていくんだというわけです。
 幸せになりたかったら、そういう生き方をしましょう、ということですよ。
 その為には、自分も大事なように、皆も、それぞれ大切な命を頂いているのだから、お互いを大事に大切に思って、相手のことをちゃんと想像して、 相手のことを考えて、言葉を選んで、大切に接していきましょう。
 浄土真宗の「仏説無量寿経」の中に、有名な「和顔愛語」という言葉があります。
 和やかな顔、相手を思いやる言葉ということです。
「和顔愛語」とは、和やかな笑顔と思いやりのある話し方で人に接することです。
この言葉は、さらにこう続きます。
「先意承問」(せんいじょうもん)。
これは、「相手の心、気持ちを先に察して知って、相手の問いをたまわる」ということです。
 相手がどういう心をしているのか、どういう気持ちでいるのか、ということをちゃんと知るということですよ。
 知るから、自分が相手に立石て、どういう言葉を選べばいいのかということがわかるわけですよ、見えるわけですよ。
 しかも、常に穏やかな顔で、どんなことがあっても怖い顔をしないということですよ。
 ちゃんと相手の心、気持ちをしって 言葉を選び、心を乱さず、おだやかに、穏やかな顔で、どの人に対しても丁寧に接していける方を仏様というのです。
 相手の心、気持ち、その望みを受け取り、自分が満たしてあげるという意味です
 「和顔愛語 先意承問」とは、「和やかな顔と思いやりの言葉で人に接して相手の気持ちをいたわり、 先に相手の心、気持ちを察して、相手のために何ができるか自分自身に問いただす」ということになります。
 まず自分から笑顔と優しい言葉で周りの人に接する姿勢、それが「和顔愛語」です。
 大切なのが「先意承問」、つまり「相手のことを先に考えて、与えること」です。
 大切なのは、思いやりです。
 私は中々そうはいきませんわ。お釈迦様はどう接していかれたのかなあ。親鸞聖人はどう接していかれたのかな。阿弥陀様ならどうされるのかな。
 私たちは、「損得」「好き嫌い」で判断していくのです。本当に判断している訳ではないのですよ。
 嫌いな人が、次の日に好きになったら、その人に対する私の態度も変わるんですよ。
 好きな人が次の日に嫌いになったら、また態度が変わるんですよ。
 それは自分が得するか損するかで態度が変わるんですよ。そうじゃないですか?
 例えば相手がちゃんと自分の思いを汲んで、上手にする人や組織を優遇するという、そういう話ですよ。
 しかし、それが私たちの思いに反してですね、向うが正直に、私たちの不利な態度や言動をすることになったら、 「もうそんな人とは、あんな組織とは付き合わない。」ということになるわけですよ。
 こんなことは私たちの身近でもあるのではないですか? 人間はちょっとのことで変わるんですよ。
 自分自身の問題となったらどうですか? 結局、自分にとって不利になる、今の自分の生活が壊される人を排除していくです。
 もし自分がその人と同じ立場になったら、今度は自分が排除されていくわけですよ。
 そうやって私たちはお互いの関係性を壊していくわけですわ。言いにくいことです。こうやって私たちは苦しみを作って行くのですわ。
 「相手がどういう気持ちでいるのか?」ということを考えなくなるのですよ。
 自分のことだけで精一杯、「自分が有利になるか、自分の今の状況が壊されるか?」「得するか、損するか?」
 そういうことだけで判断していくことになるわけです。そうすると相手のことが思えなくなるから、きつい顔になるわけです。不利になる場合はですね。
 きつい顔されると委縮してしまうわけです。そうなると思いやることがなくなり、きつい言葉になるわけです。
 そうすると生きていくのが嫌になるわけです。つながっていくのが嫌になって、人間関係を持ちたくなくなって、皆が孤立していくわけです。
 そうやって淋しくなっていくわけです。こんなことは言いたくないのですよ、色々なところであるわけですよ。辛いですからね。
 「仏様とはどういう方であるのか?」「智慧が出で来るなりとはどういうことなのか?」味わていきたいものです。
 
☆「夜席の法座は昼席と違って、静かに自己の内面を見つめ、目に見えませんが、 仏様に出会わせて頂いているという感じが強くします。
どなたでも、どうぞご遠慮なく、夜席の法座にもお参りして頂いて、 一日の営みを終え、静かな中で、共に仏様の命に遇わせて頂きませんか。
       称名」


 行事の模様を、写真で紹介します。

『永代経法要』
「帳場」『受付』 
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『永代経法要』
18日昼席
長上朋史・真希  
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『永代経法要』
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