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「御正忌法要」
『御正忌法要』について 
『御正忌法要』が、令和2年2020年1月13日【月】昼席・夜席〜14日【火】昼席、光西寺にて、行われました。

講師 金岡親量師【御調町 金剛寺】より、尊いご法話を聞かせて頂きました。有難うございました。合掌


「皆様には、ようこそお参り下さいました。
 御講師様には、尊い仏縁を頂き、有難うございました。
初めてお参り下った方もあり、お聴聞下さいました。大変嬉しいことです。
何かとご多用な中、お参り下さり、真剣に聴聞されている姿を見て、住職である私自身も、自分の問題として聴聞させて頂かなければと教えられますね。
 夜席の法座は昼席と違って、静かに自己の内面を見つめ、目に見えませんが、仏様に出会わせて頂いているという感じが強くします。
 どなたでも、どうぞご遠慮なく、夜席の法座にもお参りして頂いて、一日の営みを終え、静かな中で、共に仏様の命に遇わせて頂きたいものです。称名」
この度、不思議なご縁で、令和1年2019年9月、光西寺副住職の長上 朋史(おさがみ ともふみ)が、 長上 真希(おさがみ まき)さんと入籍(結婚)しました。

☆仏様のみ教え☆                 【文責 住職】


『一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫【ざいあくしょうじのぼんぶ】、 曠劫【こうごう】よりこのかた常に没し常に流転して、出離【しゅつり】の縁あることなしと信ず。
二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮【おもんぱか】りなく、かの願力に乗じて、定んで往生をうと信ず。』

 「※二種深信【にしゅじんしん】※」という御讃題【ごさんだい】でお話しさせて頂いています。私は一番大切なところだと思うんです。
 「※二種深信【にしゅじんしん】※」というのは、浄土真宗の信心というのは、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」というのは、 「南無阿弥陀仏という六字のお謂れ【おいわれ】を、聞かせて頂いて、その中に現われてくる、明らかになってくる、私の姿」なんです。
 その姿に出会わしてもらって、「かの阿弥陀仏の四十八願は」に示される、間違いない如来さまの姿に、出会わして頂いて、 それによって、引き起こされる信心という形になります。
 普通、「信仰」とか「信心」というのは、「私が、信じる。」ではないですか?
 一生懸命頑張って、信じいくことです。しかし、よく言われるのに、「一生懸命頑張って信じた信心は壊れるよ。」と。
「一生懸命に信じている。」というのは。何を信じているのかと言えば、「自分」を信じているのです。 
 自分を信じているからね、だから、「裏切られる。」という。自分自身が、あてにならなくなっていく世界が現われてくる。
 私は他人に言われたことがあります。「あなたはお坊孫なのだから、もっと人を信じなければいけない。」と言われましたので、こう言いました。
「馬鹿なことを言うな。自分のことさえ信じられないのに、他人のことが信じられるか。」と言い返しました。
「そんなことを言うものではない。」と怒られました。
「いや、そうじゃない。信じるということはね、本当に信じたらね、裏切られるということはないんです。」
 私たちが、「信じる。」というのは、「信じる私を信じている。」という意味です。
「見る眼が間違いない。私が間違いない。」と思っているから、大丈夫だ。これは相手を信じているのではないのです。
 自分自身の力を信じているということです。しかし、その力というのは変わるんです。
 その時に、自分自身の姿を見ている時に、「あれ?」という世界が出てくるのです。
「間違いない。」と自分で思って、お念仏して、という世界ですね。
 私も僧侶ですから、お経を読んで、ちゃんとお勤めします。日によっては何回もお経を読みます。
 それでは、お経を読むのですから、私は段々と良くなっていくでしょうか?
 言いにくいのですが、お仏壇の前に座って、目の前に、お経を頂いて、お釈迦様の説法、そして、それを噛み砕いて下さった親鸞聖人の御示し。
 それを口に頂きながら、
 目の前には、西方極楽浄土の姿がある。阿弥陀如来の姿があるわけでしょう。
 だけど、そこで、私の心がどのように動いているか?
 「心を弘誓【ぐぜい】の仏地【ぶっち】に樹【た】て、思いを難思【なんじ】の法界【ほうかい】に流す」と言いますが「本当にこうなっていますか?」
 お経を読みながら、時間は気になるし、音は気になるし、本当なら、そんなことは気になってはいけないのです。
 夕方五時〜六時になってくると、お供えのお菓子が気になります。お菓子が美味しそうに思えてきます。
 そんなことを思うところではないですよ。仏壇の前では。
 それは分かっているけれど、目には入ったら、心は動く。
 外の音が気になる。夏で一番気になるのは、雷の音です。
 田舎では車のカギなんかは、かけないし、窓は開けっ放しなんです。
 最近はお参りして、車のカギがないからおかしいと思ったら、車にカギがついていたこともあります。
 それだけ、田舎は、のんびりしているんです。窓が開けていたりするんです。雨が車に入ってしまうと服が濡れるじゃないですか。
 私にとって一番大切な、南無阿弥陀仏のご縁に遇っている時も、この私という者は、あんまり、あてになったものではないですね。
 その時に、「私が信じている。」という世界が、どこまで自分で、あてに出来るか?
 他人に、悪口言われて、腹立てている時にね、その姿を自分で分かるわけではない。
 その中に、「自分は間違いない。」と言えますか?
 我が姿が、あてにならなくなってくる。だから、「私が信じる。」という世界は本当に厳しいんですよ。
 本当に力を整えて、心を整えて、身を整えて、そうして、突き進んだ先にある世界です。これは聖【ひじり】の道です。
 だけど、それでは間に合わない者の為に仕上げられたのが、浄土真宗の信心というものです。
 浄土真宗の信心というのは、この私の姿を、知らせて下さる。それを聞くわけです。
 仏法を聞く上で、聴聞する上で大事なことは、「我がこととして聞け。」ということを、よく言われました。
 「得手に聞くな。」とか、「自分の都合のいいように聞くな。」とか。
 仏法を聞いて、自分の知識、自分の知恵の材料にしようと思っているところがありませんか?
 中にこう言われる方がおられます。「私に分かるように話せ!分かるようにちゃんと言ってみろ。」と。
 これは、おかしいと思う。何故こんなことが言えるのか?と言いますと、「自分のことが問題となっていない。」からなんです。
 仏法を聞くことが「我がこと」ではないんです。
 例えばね、風邪ひいて、熱が出て、フラフラするし、体が痛い、と言うときに、病院に行って、 「この病院は、大きいじゃ、小さいじゃ、新しいじゃ、古いじゃ、このお医者さんは背が高いじゃ、低いじゃ、格好がええじゃ、悪いじゃ、 色が白いじゃ、黒いじゃ、髪が長い、短いとか、、、。」
 そんなことを言う余裕はない。何故かと言うたら、「我が身が問題。」だからです。
 他人事で、仏法を聞いているのではないですか?そんな聞き方をしていたら、知識というか、そんなものにしかならないです。
 「本当のはたらき」というものがないです。
 曇鸞大師【どんらんだいし】の「論註【ろんちゅう】」に 、「氷上燃火【ひょうじょうねんか】」の譬えというものがあります。
 氷の張った池の上で焚き火をすると、火の熱で氷が解け、氷が解けると火は水中に落ち、たちまち火は消えてしまいます。
 例えば、愛しい人が待っているという願生心は、突き詰めて言えば、愛しい人への執着であり、一種の煩悩です。
 しかし、それが執着であっても、池の中に落ちれば、すなわち浄土に往生すれば、たちまちのうちに、その執着は消えるのです。
 「正信偈【しょうしんげ】」の中に、 「能発一念喜愛心【のうほついちねんきあいしん】不断煩悩得涅槃【ふだんぼんのうとくねはん】」とあります。 愛心(よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり)とあります。
 「迷うたままで、悟りを開く。」という意味ですよ。「あれ?」という感じで、よく分からないですよね。
 この私の迷いの根源である「無明【むみょう】」というのは、闇、氷というか。
 お浄土に生まれた時に、この私の無明の闇は氷となる。厚い氷になるんだそうです。
 そして、私の煩悩は、色々な煩悩を持っている。それは炎、業火として、燃え上がっている。
 氷の上で火を焚く状態、どうなりますか?氷は溶けます。
 氷は解けて、水になり、その水で火も消えます。そして、残された水は、全て悟りの水となります。
 これを聞いたときに、「ああ、そんなもんか、なるほどなあー。」と聞こえてくるのが、知識として聞く世界です。
 それでは、「我がこととして聞く。」という世界ではどうなるのか?
 その無明の氷、そして、燃えさかる煩悩の業火というのが、この私の姿の上に、あらわれてくる。
 この私が、今、現に、その熱い氷の中に閉じ込められておる。そして、その私が煩悩の業火の中で、今、苦しみの中を、あがいておる。
 どうにもならない世界、その、どうにもならない世界が、そのまんま、私を救うて下さる世界になるんだ。
 私の上で味わう。これ、「聞く」ということです。
 全て、「私の上で」「私を通して」聞いていかなければ、道具にしかならない。それも外に向かって使う道具にしかならない。
 我が役に立ってくれません。
 「我がこととして聞く」ということなんですけれど、この私の姿、それが見えた時に、、、私の姿はね中々見えて来んのよ。
 「良い人になろう。」と思うているからね。「良い人」になれると思っている。
 だけど、仏法を聞いていく中で、見せられる確かな姿の前に、この私の姿がね、「ありゃ?」「ありゃ?」という世界が見えてくる。
 私は悪業を積んで、苦しみたいとは思っておりません。仏教でいう悪とは、私を苦しめるものだから、悪で自分が苦しみたくはないです。
 できれば喜びたいです。安心したいです。
 欲として、非常に多いのは、「他人に褒めてもらいたい。」という欲です。
 言いはしませんが、「他人から、よく見られたい。」という欲があります。常に、自分の立場を良いように、良いように持って行こうという思いがあるんです。
 それによって、「他人に良く見られたい。」と思ったら、良く見られることをしないといけない。
 だけど、「他人から、良く見られる。」善根という行為が、行為をやっても、それがね私の上で喜びになっているのかと言ったら、喜びになっていなのです。
 そんなにうまく行かないです。誰かのために何かをするという世界は、誰れにもあるとお者ですが、最後まで「よかった。よかった。」で全部済んだですか?
 よく聞く言葉に、「私はねあの人にこうしてあげたんだ。だけど、、、。」と言われます。欲の世界から見ると、相手が悪くなるんです。
 如来の教えから見てみると、己れの罪になるのです。自分の手柄にしたいという、自分の欲の為にしているから、「してやったる」と思っているからです。
 善根功徳とは「させてもらった。」という気持ちでするのが善根功徳というものです。
 禅宗の話に、五百両という金を寄進したのに、ろくにお礼も言わなかった。
 そこで、「 あれだけしてやったのに、ろくにお礼も言わないではないか!」文句を言うと、 「あんたが功徳を積んで、あんたの功徳になって、何故私がお礼を言わないといけないのか?私がお礼を言われたい。」と言ったそうです。
 そういう世界です。
 善い事をして、それを自分の手柄する世界は、それがは、そのまま私の苦しみになっていくのです。
 布施という世界がそうなのです。布施というのは喜捨といって、「投げ捨てる」ということです。財施もあれば、お布施もあります。
 相手を色々と支えていくことですね。その行為はした段階で、もう消えていかないといけないのです。
 「した。」という思いがあったら、そして、「された。」という思いがあったら、それは、善にならないのです。
 「した。」という思いが「してやった。」という思いになっていくから、自分の中で、いつまでも、いつまでも、相手の見返りわ求めるのですね。
 自分の思い通りにならなければ腹を立てていくことになります。
 もう一つね、「された。」という思いも、それも消えていかなければならない。
 する側と、される側と、どっちがいいですか?
 される側になった時に、物を貰うよね、貰うのは嬉しいけれど、嬉しいばっかりですか?
 貰うことも辛いということもあるのよ。それを考えたらね、貰って頂いたら喜ばなければならない世界があるのですよ。
 「有難う。有難う。私の差し出したものを、受け取ってくれて。」
 そっから先は、「した。」という思いも、「してやった。」という思いも亡くなってしまうだろう。それが本当の布施なんです。
 それなら、私の苦しみになっていきません。この私は、捨てた事は忘れません。それ以上に、「してやった。」ということは忘れないですよ。
 相手をみる度に思いますよね。私も15年前に、ある人に、してあげたことを、今でも覚えていますよ。相手は忘れていますけれど。
 そのかわり、その人と、付き合いが無くなったですわ。
 何かをしてやったら、「してやった。」と思って、ずっと、それが邪魔をして、己れのやっておることが、全て己れの苦しみの材料になっていく。
 全てが計算なんですよ。自分中心にしか動いていないんです。
 相手に親切しても、知らず知らず「こうしておけば、後でいいことがあるだろう。」
 「今こうしておけば、いい印象を相手に与えておくことになるだろう。」という計算が働いているのですよね。
 親切したあとで、「今日は良い事した。」と言うと、「それが悪い。」と他人に言われたことがあります。
 ドキッとしました。どういう思いで言われたのか分からないけれど。
 言われて、後から考えたら、全てが計算なんですよ。自分中心にしか動いていないんです。
 その瞬間に、私は、ものすごいスピードで計算していたのでした。
 知らず知らず「こうしておけば、後でいいことがあるだろう。」
 「今こうしておけば、いい印象を相手に与えておくことになるだろう。」
  「また、どこかで会うかも知れないし、その時の為に、好印象を与えておきたい。」という、そこまで計算が働いていることに自分で気づいたのですね。
 しかし、自分の心の中での動きは外には出ていないんですよね。
 「善い事をした自分」というところで、己れを見ているのですね。
 そのことに、言われた瞬間に気がついた。
 どれだけ、我が都合のいいように、得手勝手に、物事を判断しているか?
 自分の心の中で、どういう動きをしているか? 自分の姿というものが、どれだけ自己中心的なものか?
 その姿というものが、とどまらず、たえず、消えず、その姿というものが、私の姿でありますよと、しかも、末通った姿であるよと、気づかして下さる世界が、 「機の深信」といわれる姿です。
 その私の姿に対して、「法の深信」、如来様の南無阿弥陀仏、六字のみ教えが、どう働いて下さっておるか。
 ということに、どういう思いで、どういう働きで、現に私の上に、どういうことに気付かせて下さるのか?
 それが「法の深信」の姿です。
 これは両方とも、どこまでも、どこまでも、深くなるのです。
 「ああー、ここまでやったか?」これが両方に言えます。
 その深き心の中で、出会う中で、私は喜びの世界を聞いていくことが出来るんです。
 その深き心について、聞かせて頂きましょう。

※「※二種深信※」→【「一つには自身は現にこれ」等というのは、救われる私ども→【機】について示されます。
「二つにはかの阿弥陀仏の四十八願は」等というのは、その【機】を救う【法】について示されます。
そしてこの【機】と【法】について、それぞれ「決定して深く……信ず」とありますから、「二種深信」といわれます。
 「機の深信」の中、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」というのは現在の私の姿で、「罪悪 【迷いの因】 生死 【迷いの果】 の凡夫である。」という意味。
「曠劫よりこのかた」等とは私の過去の姿で、「 始めなき大昔から、いつも悪道に沈み (常没【じょうもつ】)、迷界をへめぐってきた(常流転【じょうるてん】)」という意味。
「出離の縁あることなし」とは、迷界を出る手がかりがないとい意味。
前に現在と過去の姿を示されていますから、この文は「将来に向かって、今後も迷界を出る手がかりがない。」という意味。
 そうしますと、「私は今、罪悪生死の凡夫であるばかりでなく、これまでも、これから後も、迷界を出ることの出来ない身である、 とハッキリ知らせて頂く。」のが「機の深信」であります。
「かの阿弥陀仏の四十八願は」というのは、意は「第十八願」を指しています。
「四十八願全体が衆生を救わずにはおかぬ。」という「第十八願」に総摂されますから、今は「第十八願」のことを「四十八願」と仰せられたのです。
「衆生を摂受して」というのは、「衆生」とは前の「機の深信」で示された衆生、すなわち「迷界を出る手がかりのない私」で、 「その私をお救い下さるのが阿弥陀仏の願力である。」という。
 「疑いなく慮りなく」というのは、上の文に属して「衆生を摂受したもうこと、疑いなく慮りなし」というふうに見れば、 「阿弥陀仏が衆生を救いたもうことに一点の危ぶみもない。」という意味です。
下の文に属して「疑いなく慮りなく彼の願力に乗じて」と見れば、「願力に乗ずる私の心相が一点の危ぶみもない。」という意味。
【機】を救う【法】の側に危ぶみがないから、この【法】に救われる【機】の側に危ぶみがないのです。
「衆生が一点の危ぶみもなく願力にお任せする」という意味。
 「かの願力に乗じて」というのは、「乗」は「船に乗るとか車に乗るというように乗託する(任せる)こと。」であり、「阿弥陀仏の願力にお任せすること」
「定んで往生をう」とは、「間違いなく真実報土に往き生まれることが出来る。」という意味。
そうしますと、阿弥陀仏の願力は迷界を出る手がかりのない私どもをお救い下さる【法】である、とハッキリ信知させていただくのが「法の深信」であります。
 この「機法二種の深信】は別々の二つの信心ではありません。
名号・南無阿弥陀仏のおいわれを聞くことによっておこさしめられた他力の信心を機の側と法の側とに分けて示されたものであります。】※


★二日目・昼席には、『御伝鈔』を拝読させて頂きました。
「報恩講」という言葉をはじめてもちいられたのは、親鸞聖人の曾孫で、本願寺第三世の覚如上人で、「報恩講式」をあらわされたのが、それでした。 宗祖の十三回忌を営むにあたり、お徳をたたえるために、法要の儀式や作法を一巻の書物にあらわされたのです。  宗祖をしのぶお念仏の集まりを、「報恩講」という形にされたのです。その翌年あらわされたのが、 『御伝鈔』(親鸞聖人の御生涯を通して味わう信心の喜びが、間違いなく正しく伝えられていくことを、 強く念願されて、宗祖のご恩とお徳に対する感動と感謝の思いを込めて覚如上人が作られました。)でした。 はじめのものは、「絵詞」の形でした。宗祖のご生涯と、お念仏のよろこびを多くの人に伝えるために、 「絵」と「詞」が分けられました。

●報恩講は、親鸞聖人のご命日【旧暦で11月28日、新暦で1月16日】につとめられる報恩の講「法会」【ほうえ】です。
このご命日のことを「ご正忌」【ごしょうき】と呼びます。
一般の寺院では、本山のご正忌の報恩講にさきがけてつとめられることから、「お取り越し」【おとりこし】などと 呼ばれています。

 行事の模様を、写真で紹介します。

『御正忌法要』
長上朋史・真希 挨拶 
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『御正忌法要』
帳場『受付』  
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『御正忌法要』御講師
金岡親量師 
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『御正忌法要』 
1/13昼席 
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『御正忌法要』
1/13昼席 
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『御正忌法要』 
1/13昼席 
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『御正忌法要』
ぜんざい 
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『御正忌法要』 
ぜんざい
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『御正忌法要』
ぜんざい 
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『御正忌法要』 
1/13昼席 
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『御正忌法要』
「教章」斉唱 
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『御正忌法要』 
「教章」斉唱 
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『御正忌法要』
「恩徳讃」斉唱 
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『御正忌法要』 
長上朋史・真希
御講師に挨拶 
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『御正忌法要』
長上朋史・真希
御講師に挨拶 
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『御正忌法要』
長上朋史・真希
御講師に挨拶 
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『御正忌法要』 
長上朋史・真希
御講師に挨拶 
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『御正忌法要』
1/13夜席 
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『御正忌法要』
1/13夜席 
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『御正忌法要』 
帳場【受付】 
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『御正忌法要』 
1/13夜席 
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『御正忌法要』
静かな夜席 
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『御正忌法要』
1/13夜席  
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『御正忌法要』
「教章」斉唱 
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『御正忌法要』
静かな夜席「茶菓子」 
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『御正忌法要』 
1/14昼席 
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『御正忌法要』
1/14昼席 
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『御正忌法要』 
1/14昼席
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『御正忌法要』
長上朋史・真希 
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『御正忌法要』 
「御伝鈔」拝読 
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『御正忌法要』
「御伝鈔」拝読 
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『御正忌法要』
「御伝鈔」拝読 
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『御正忌法要』
「御伝鈔」拝読 
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『御正忌法要』 
長上朋史・真希 挨拶 
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『御正忌法要』
長上朋史・真希 挨拶 
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『御正忌法要』
長上朋史・真希 挨拶 
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『御正忌法要』 
1/14昼席 
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『御正忌法要』
ぜんざい 
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『御正忌法要』
帳場【受付】 
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『御正忌法要』 
ぜんざい 
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『御正忌法要』 
1/14昼席 
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『御正忌法要』
1/14昼席 
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『御正忌法要』御講師
金岡親量師  
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『御正忌法要』
「教章」斉唱 
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『御正忌法要』
「恩徳讃」斉唱  
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『御正忌法要』 
長上朋史・真希
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『御正忌法要』
1/14昼席 
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『御正忌法要』 
1/14昼席
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『御正忌法要』
1/14昼席 
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『御正忌法要』 
1/14昼席 
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『御正忌法要』
1/14昼席 
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『御正忌法要』
長上朋史・真希 
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