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「降誕会法要」
『降誕会法要』について 

『降誕会法要』が、令和1年2019年5月22日【水】昼席・夜席〜23日【木】昼席、光西寺にて、行われました。

講師 平山 義文 師
 【福山市 光栄寺】


『平山 義文師より、尊いご法話を聞かせて頂きました。合掌 』


「皆様、ようこそお参り下さいました。新しい方もお参り下さり、又お世話下さり、こんな嬉しい事はありません。称名」
「仏教婦人会の皆様には、おとき、汁物の準備など、午前中からお世話頂きまして、有り難うございました。肉汁とても、美味しかったです。」
「「オカリナ演奏」→「野に咲く花のように」「羽生の宿」「リンゴの歌」等の出し物などで、場を盛り上げ、オカリナの綺麗な音色で、和ませて頂きました。」
「おかげさまで、降誕会法要の行事を盛大に、無事に勤めさせて頂きました。充実した降誕会法をさせて頂きました。有り難うございました。称名」 
 

☆仏様のみ教え☆           【文責 住職】
 
 本願寺と言いますが、「本願のお寺」という意味で、浄土真宗の教えの根本を名前にされているように感じます。 

 「本願」なくして「教え」は成り立たないのです。

 「必ず救うて、仏に仕上げるから、わたしにまかせて、南無阿弥陀仏とお念仏して下さい。」と決意されて行かれたのが「ご本願」です。
 
 それでは、阿弥陀様は、「どういう者を目当てに救わないといけない。」と働いている仏様なのでしょうか?

 「それは仏様の救いの目当ては凡夫ですよ。」と言われます。
 「凡夫」とは「普通のお方」という意味です。

 お経には、「罪悪深重の凡夫が救いの目当てである。」と説かれています。
 仏様は罪が深い者を逆に目当てとして下さっているのです。
 
 これが阿弥陀様なのですよ。普通の一般的常識では、 「あなたは善い事されましたね。本当に世の為人のため、御苦労下されました。それでは何とかしてあげましょう。」これが普通の理屈ではないかと思いますがね。
 
 阿弥陀様は、逆に罪人が救いの目当てだとおっしゃるのですよ。
 これはどういうことかということです。

 阿弥陀様の願いが「四十八願」として説かれています。
「たとえ、もし今度、私が仏に成るご縁があったなら、こういうことが叶えられなかったなら、私は悟った仏にはならない。」
 と説かれています。                      
 
 阿弥陀様の願いが「四十八願」の中の、「第十八願」に  
 「たとひ、われ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。
もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ、五逆と誹謗正法とをば除く。」
 意訳「たとえ私が仏に成るとしても、全ての人々に、真実の誓いが至り届き、少しの疑いもなく信じせしめ、 浄土に生まれたいと思わしめ、お念仏をせしめさせよう。その上で、全ての衆生が往生することがなければ 私は仏にはなりません。
ただ、殺父(乳を殺し)・殺母(母を殺し)・殺阿羅漢(聖者を殺すこと) ・出仏身血(仏の身を傷つけ血を流すようなふるまいをすること) ・破和合僧(仏弟子の和合を乱すこと)の罪を犯す者、 仏法をそしる者は除きます。

 最後に、「五逆と誹謗正法とをば除く。」という言葉が十八願にはつけ加えられてあります。
 
 「唯除」とは「唯だ除く」ということです。
 「五逆罪」の罪、「誹謗正法」の罪は除きますよ。
 
 「いくら仏様は罪人を救いの目当てとして下さっていると言っても、さすがに仏様と言ってもねえ、こういう罪を犯した者は救うわけにはいきません。」 と言われているのですよ。
 「五逆罪」→「五つの逆らっていく罪」であります。
 殺父(父を殺すようなことをすること)・殺母(母を殺すようなことをすること)・殺阿羅漢(修行僧を殺す、傷つけるようなことをすること) ・破和合僧(お寺参りする人の和を乱していくこと) ・出仏身血(仏の身を傷つけ血を流すようなふるまいをすること)
 「五逆」の「逆」は「逆らう」ということですから、殺さないまでも、逆らっていくということも罪ということでしょうねえ。
 「誹謗正法」とは「仏教の教えなんかつまらない。」こんなことを言う人も、ちょっと救うわけにはいきませんね。そう言われているのです。
そこで親鸞聖人も、阿弥陀様の救いの目当てのお一人でありますよね。
 親鸞聖人は九歳の時に、青蓮院で出家得度され、仏門に入られました。
比叡山で二十年間、自力の修行を積み上げていかれたわけですよ。
 でもねえ、いくら修行を積んでも、お悟りは開けませんでしたと、大きな壁に突き当たって行かれます。。
 その壁が、戒律の壁であり、煩悩の壁でありました。
 いくら修行をしてもね、人である限り煩悩を取り払うことが出来ない。
 戒律をきちっと守っていくわけにはいきせんでした。 これが人でありました。
 それではどうすればいいか?と山を下りられていきます。
そこで、尋ねられて行かれたのが法然上人ですねえ。親鸞聖人が二十九歳の時です。
 法然上人とは四十歳の年の開きがあったそうで69歳だったそうです。
 そこで阿弥陀様のご本願の誓いに遇っていかれます。お念仏を喜ばれる身になっていかれたのが親鸞さまです。
 親鸞聖人も阿弥陀様の救いの目当ての一人であったわけです。
阿弥陀さまは罪の深い者を救うと言われますが、それでは親鸞聖人はどんな罪を犯したというのでしょうか。
 親鸞聖人は「私はしてはならない五逆の罪をしていまいました。」と言われました。
4歳の時に実父を亡くされ、8歳の時には実母を亡くされ、9歳の時には、仏門に入られた。
 仏様を拝まれる身になっておられるわけです。
  殺父(父を殺すようなことをすること)・殺母(母を殺すようなことをすること) ・出仏身血(仏の身を傷つけ血を流すようなふるまいをすること) などの罪を犯されたとは思えないのですね。
 親鸞聖人は「実は私が五逆の罪を犯したと言いますのはね、心の中で、何度も親を傷つけ、仏様に逆らい、そんなことをしたのが私で、 これをしたのと同罪なのです。」とおっしゃるんですよ。
 仏教の教えは、戒律と言いまして、決まりごとがございます。
 これはしてもいいが、これはしてはならない。
 人を殺していくのも罪ですが、心の中で殺すことを思うことも、仏教の教えでは、同罪だと言われるのです。
 だから「あいつのこと腹が立つ、ぶん殴ってやりたい。」と思っていたら、実際には殴っていないけれどね、殴ったのと同じだ。そういうことですよ。
 
 心で悪い事を思うていくことも罪だと、そこまで厳しいこと言われるのですねえ。
 そうなったならば他人事ではないですよ、皆さん。
 自分は如何なものなのか?ということを、よく考えないといけないことです。
 私は他人に酷いことなんか思いはしませんよ、と言いましてもですね、知らず知らずのうちにねえ、 他人を傷つけてしまっているということも案外あるようでございますねえ。
 落語家さんが言われていましたよ。
 「落語家殺すにゃ、刃物は要らぬ。あくびの二つもあればいい。」
 どうでございますか?                      
 面白い言い方ですね。一生懸命話してね、皆に笑って貰おうと思って話されているわけですよ。
 そしたら客さんにあくびが出たのですね。
 まあ、間違って一回くらいは、あくびが出ることがあるかも知れないけれど、立て続けに、あくびを二回もされたらねえ、これは話がつまらんから、 あくびが出たのだ。
 もう落語家なんかやめてしまったらいいのではないか?そういうことですよね。
 「落語家殺すにゃ、刃物は要らぬ。あくびの二つもあればいい。」
 別に、あいつ殺してやろうと思って、あくびしたわけではない。
 しかし知らず知らずのうちに相手を傷つけてしまうということは案外あるものだと思いましてね。
 親に対してはどうか?ということですよ。
 皆さん如何でありましょうか?中々むつかしいところがあるのではないでしょうか?
 思い当たる点もあるのではないですか? 
 「冷酒と親の小言はあとで効く」と言いますがその通りですね。
 生きている間は気づかなくても、親が亡くなって、親に対して自分がしたり、言ったりしてきたことが悔やまれることもあります。
 皆さん如何でしょうか?五逆罪と聞いたらねえ、「父を殺す、母を殺す、、」私はそんなひどいことしていませんよ。
 どこか他の世界の人の話ではないですか?
 そう思われがちになるかも知れませんが、自分自身を見つめさして貰ったら、一度や二度どころではなかった。
 実の親に対してでも、何度も酷いことを思ってみたり、 時には、声に出して、言葉に出して、反抗してみたり、そういうことを繰り返してしまっていたのが私自身だったなあと、思わずにはおれないことですね。
 五逆罪の罪を犯した者はですよ、仏といえども救えません、と言われるのですよ。
救われるはずのない罪を犯して生きていかなかったら、逆に本当に生きれないのが、これが本当の人の姿ではかなったか? 
 そういう あなただったね。だからこそ、救わずにおれませんでした、と働かずにおれないのが、阿弥陀様ーという仏様なんですよ。
 ですから、親鸞聖人は「弥陀の誓願不思議に」「何と御本願というものは不思議なものでありました。」と、深く喜ばれたことであろうと思いますね。
 第十八願には「唯だ 五逆と誹謗正法とをば除く。」と書いてあります。
 「唯除」とは「除く」ということです。
 この罪を犯した者は除く、ということです。
 それではその罪を犯した者は本当に大丈夫なのか?という疑問が出てくるわけですよ。
 親鸞聖人という方は、いつもそうなんですよ。お経の文面通りの意味を、きちんと教えて下さったのも親鸞聖人です。
 お経に書いてある言葉の裏側にある隠された本当の仏様のお慈悲を教えて下さったのが、これが親鸞聖人の特徴と言ってもよかろうと思いますね。
 「唯除」→「取り除く」「救いません。」という厳しい言葉でございますが、この言葉の裏に隠された本当の仏様のお心、それを「仏意」と言います。
 これが二つ隠されております。
 一つは「抑止」【おくし】一つを「摂取」【せっしゅ】と教えて下さいました。
 「抑止」【おくし】とは「押しとどめる」という意味です。
 五逆罪の罪は恐ろしい罪でございますから、間違ってもあんなことはしてはいけませんよ。
 したものは救うわけにはいきませんからね、と押しとどめんが為に、 「唯除」→「取り除くぞー。」と表現して下さってあるのです。
 でも、「するな!」ということをね、してしまうのが、人の本性ではなかったか。
 「するな!」言うたのにしてしまう。
 してはいけない、ということをしてしまうのが、これが本当の人の姿ではなかったか?
 するな!ということをしてしまったが、「それでは知らん。」と言われる仏様ではなかったのですねえ。
 そうよ、そうよ、そういう あなただったな。
 だからこそ救わずにおれませんでした、と「摂取」【せっしゅ】と腹炊いて下さるのでございます。
 「摂取」【せっしゅ】の「摂」【せつ】は「ものの逃げるを追わえとるなり」と、こう説明下さいます。
 「ものの逃げる」→「逃げていく者」ということです。
 「するな!」ということをしてしまうということは、仏様の心から言ったら、背中を向けてね、 逃げていっているのが私の姿ということですよ。
 その逃げて行こうとする者まで、追わえとって、離すことがない、「ものの逃げるを追わえとるなり」これを「摂取」【せっしゅ】と言います。
 「するな!」ということをしてしまう私でさえ、追っかけてきてまで下さって、離すことがないというお慈悲のお心が、この「唯除」→「取り除く」 という言葉に隠されているんです。
 やっぱり、まさにそうだなあーと思いますねえ。
 悪い事すれば親は「出ていけ。」と言いますよね、
 その「出ていけ」という言葉に親の願いが込められていたということですね。
 「何故そんな悪いことするの、他人に迷惑かけるの、もっと善い子になりなさいよ。」という、その思いが「出ていけ。」という言葉になっておればこそね、 帰って来る私も家に入れてもらえたんだなあ。
 「唯だ 五逆と誹謗正法とをば除く。」「取り除くぞー。」と厳しく言って下さった、その言葉の裏には、 隠された本当の仏様のお慈悲が、そこにはあるんでございます。
 色々な罪を犯さなかったらねえ、生きていけんのだ、これが人じゃなかったか。
 そこまで見抜いてね、教えて下さったのが、親鸞聖人です。
 こういう教えに遇わせて頂いているのが、これが浄土真宗の教えですね。
 煩悩を抱えた、この私が、「そのまんま来いよ、必ず救うて、仏に仕上げるから、まかせよ。」と、お誓い下さっているのが「御本願」でございます。
 どうぞ、「本願寺」のお名前を聞くときにはね、仏様のお慈悲を思い起こして頂いたらと思います。

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☆住職の長男 長上 朋史【おさがみ ともふみ】が、平成30年3月より、お寺の仕事をお手伝いさせて頂くこととなりました。
 皆様の月忌参り【がっきまいり】のお勤めに参るかも知れません。
 皆様どうぞよろしくお願い申し上げます。

 ☆夜席の法座は、外ではなく、静かに自己の内面を見つめ、
 目に見えませんが、仏様に遇わせて頂いているという感じがします。
 どなたでも、どうぞご遠慮なく、夜席の法座にもお参り下さいませ。
 一日の営みを終え、静かに、共に仏様の命に遇わせて頂きませんか。


☆梵鐘【ぼんしょう】の用語解説→梵鐘【ぼんしょう】は「集会鐘(しゅうえしょう)」ともいい、法要や儀式を開始するに先立って、大衆が参集する合図として 三十分または一時間前に撞く。打数は十打とし、各間隔をゆっくりあけ、余韻がかすかになってから次を撞き、 最後の二打は少し間隔を早めて撞く。梵鐘は、法要や儀式以外(朝夕の時報など)に撞く場合もある。
☆喚鐘【かんしょう】の用語解説→ 勤行(ごんぎょう)や法会(ほうえ)などの開始を報じる小形の梵鐘(ぼんしょう)。半鐘。
 喚鐘は「行事鐘(ぎょうじしょう)」ともいい、法要や儀式の開始を知らせる合図として打つ。

打ち方は、適当な間隔で七打してから、打ち上げて打ち下し、次に五打してから再び打ち上げて打ち下し、最後に三打する(三打のうち第二打は小さく打つ)。



 行事の模様を、写真で紹介します。

『降誕会法要』
22日昼席 
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『降誕会法要』
22日昼席  
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『降誕会法要』
22日昼席 
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『降誕会法要』 
22日昼席 
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『降誕会法要』
22日昼席
長上朋史【長男】 
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『降誕会法要』 
22日昼席
「教章」斉唱 
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『降誕会法要』
22日昼席
「恩徳讃」斉唱 
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『降誕会法要』 
22日夜席
梵鐘【ぼんしょう】
長上朋史【長男】    
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『降誕会法要』
22日夜席 
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『降誕会法要』 
22日夜席 
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『降誕会法要』
22日夜席 
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『降誕会法要』 
22日夜席
「教章」斉唱 
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『降誕会法要』
22日夜席
「恩徳讃」斉唱
長上朋史【長男】 
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『降誕会法要』 
23日昼席
「お斎」準備 
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『降誕会法要』
23日昼席
「お斎」準備 
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『降誕会法要』 
23日昼席
「お斎」準備 
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『降誕会法要』
23日昼席
「帳場」「受付」 
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『降誕会法要』 
23日昼席
「お斎」準備   
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『降誕会法要』
23日昼席 
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『降誕会法要』 
23日昼席 
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『降誕会法要』
23日昼席 
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『降誕会法要』 
23日昼席
「教章」斉唱 
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『降誕会法要』
23日昼席
「恩徳讃」斉唱 
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『降誕会法要』 
「庭の花」 
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『降誕会法要』
23日昼席
オカリナ演奏 
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『降誕会法要』 
「庭の花」 
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『降誕会法要』
23日昼席
オカリナ演奏 
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『降誕会法要』 
「庭の花」   
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『降誕会法要』
23日昼席
オカリナ演奏 
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『降誕会法要』 
「庭の花」 
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『降誕会法要』
23日昼席
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「庭の花」 
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「庭の花」 
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「庭の花」   
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『降誕会法要』
23日昼席
オカリナ演奏 
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23日昼席
「お斎」 
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23日昼席
「お疲れ様」 
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