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法 話
☆☆
【 私の如是我聞 】
第99回
仏を讃え、仏を思う
更新
2019年11月
『
染香人
(
ぜんこうにん
)
のその
身
(
み
)
には
香気
(
こうけ
)
あるがごとくなり これをすなはちなづけてぞ
香光荘厳
(
こうこうしょうごん
)
とまうすなり』
【「浄土和讃《】
このごろ、気になることの一つに、人生の問題をテクニックとして考える傾向があります。
たとえば、家庭教育の考え方に「子どもをうまくほめるには《とか「子どもの叱り方、そのいろいろ《とかという発想があることです。
そのうち、パソコンがそのいろいろな方法を直ちに答えてくれることでしょう。
しかし、人間形成が教育の目的であることを思う時、このような方法論やテクニックの問題ではないということに思いをいたすべきであります。
子のために生くるにあらで 子によりて たどたどしながら 人の世を生く
これは、ある母子家庭の母親の歌だそうです。「子のため《ではなく この一人の子供の生命に ささえられて「子によりて《生きる母の生命の深さが 痛いほど告げられています。
また、どのように語っても、叱っても、ほめられても非行を重ねていた子供が、最後は
仏間
(
ぶつま
)
に
掌
(
てのひら
)
を
合
(
あ
)
わせていた母の姿に涙して立ち直った事実を聞いたことがあります。
このようなことを思いますと、教育、しつけなどはテクニックの問題ではありません。
それはまさに「生命《の問題だといわねばなりません。
子供の成績が五点上がったといって赤飯を炊き、三点下がったといって、顔色を変えて勉強しなさいといったようなことでは、人間の属性ばかりに 気をとられ、人間の生命に向かって何も告げていないということになります。
いまさらながら人間を育てるのは、口先やテクニックのレベルではなく人間存在の根本にふれることであることを思うべきです。
それには親自身、自分自身の行為を深くみつめ、仏を
讃
(
たた
)
え、仏を
憶
(
おも
)
う人間にならなければなりません。
掌
(
てのひら
)
合わせて仏をおもう、眼をとじて、おのれをおもう 静かにおもう
そこから、香をとりあつかっている人が、いつしか その
匂
(
にお
)
いに
染
(
そ
)
まるように その身から高雅な香りを放つから、つねに念仏する人は智慧の香りが にじんでいるので これを
香光荘厳
(
こうこうしょうごん
)
の行者というのである、と うたわれています。
「
香光荘厳
(
こうこうしょうごん
)
《の
左訓
(
さくん
)
に「ねんぶつはちえなり《とあり、智慧の念仏を香りにたとえ、仏の智慧の香りで
荘厳
(
しょうごん
)
された念仏の行者を
香光荘厳
(
こうこうしょうごん
)
と言われたのです。
凡夫
(
ぼんぶ
)
であるこの身に、仏の智慧の香りが ただようて、いつしか、その香りが人をして 感ぜしめることとなるのでしょう。
まことに おがむ人は おがまれてゆくということを思わせられる今日このごろであります。
※『真宗法語のこころ』 中西 智海
本願寺出版社
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