このページはインラインフレームを使用しています。
このページはインラインフレームを使用しています。
☆☆
法 話
☆☆
【 私の如是我聞 】
第97回
死さえも断絶でない
更新
2019年9月
『子の母をおもふがごとくにて
衆生仏
(
しゅじょうぶつ
)
を
憶
(
おく
)
すれば
現前当来
(
げんぜんとうらい
)
とほからず
如来
(
にょらい
)
を
拝見
(
はいけん
)
うたがわず 』
【「浄土和讃《】
「親子の断絶《などという、おそろしい言葉が言われて久しい時を経たようです。
このごろは「非行少年《のみならず「非行母親《とか、「非行老人《などという言葉も聞かれるありさまであります。
ところで、「断絶《という考え方は仏教にはないといわなければなりません。
「
縁起
(
えんぎ
)
《の世界に断絶なし、というべきでありましょう。
「同体の慈悲《といわれ、「一体感《といわれる考え方が一貫した仏教のこころであります。
ですから、この考え方に親しんできたものにとっては「断絶《とか「関係ないよ《といった言葉を聞く時、背すじの寒い思いがすることであります。
思えば親と子の間などというものは、それこそ「死さえもなお断絶ではない《といわねばなりません。
死なれてみて、消えない母のまぶたに涙したことはなかったでしょうか。
いま、この和讃は『
首楞厳経
(
しゅりょうごんきょう
)
』の文によって念仏三昧の徳を 讃嘆されたもので、母親の慈愛が子供のこころに しみ通ると、子供がいよいよ母親を慕うように、仏の慈悲が衆生に めぐまれると、衆生は 仏を深く心に思い念ずるというように、衆生のこころと仏のこころが呼応して かよいあうことを ほめたたえられたものであります。
お盆のころになると思い出される 『
盂蘭盆経
(
うらぼんきょう
)
』のこころは意味深いものがあります。
目連という釈尊の大弟子が、先だった母のことが忘れられず神通力で世界をくまなく見渡したところ、母を
餓鬼道
(
がきどう
)
において発見した。
伝説
(
でんせつ
)
によれば、
幼
(
おさな
)
くして父を失った目連は母の手一つで育てられた。
母は他人に施しをする心がなく、ただ「自分の子だけは《と愛し
貪欲
(
どんよく
)
の生活に終始したのでした。
やがて目連が釈尊に導かれ、布施の行を修めることによって母親も餓鬼道の苦しみから救われたというのであります。
このように母が忘れられない子、もっとも
微笑
(
ほほえ
)
んでいてほしかった母が 苦しみのどん底に沈んでいたことを知り、その苦しみの原因は、子供故に、自我をむきだしにして愛した まどいにあったことにめざめ、自らの布施の行、 利他の行によって自らもめざめ、母親も すくわれたという、この経のこころは重大な意味をもっていると思われてなりません。
いま、私たちは、それを
念仏
(
ねんぶつ
)
のこころで うなずけるのは、この和讃であります。
すなわち、子供が母親を
慕
(
した
)
うように
衆生
(
しゅじょう
)
が仏を深く
憶
(
おも
)
い念仏すると、現在は言うに及ばず、未来も、大智大悲の阿弥陀如来をおがみあえることができる、 とのこころであります。
※『真宗法語のこころ』 中西 智海
本願寺出版社
お経の本やCDや仏書の販売
西本願寺の本
本願寺出版社
本願寺
ホームページ
本願寺ホームページにて、本願寺の法話のラジオ放送を本願寺ホームページのウェブサイトで聞けます。
沢山の法話が聞けます。ぜひ一度聞いてみて下さい。
西本願寺ホームページ
今生最後と思うべし
一このたびのこのご縁は
我一人の為と思うべし
一このたびのこのご縁は
初事と思うべし
一このたびのこのご縁は
聴聞の心得
トップページへ
法話に戻る
書庫をみる
このページはインラインフレームを使用しています。