☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第96回 与えるとは更新 2019年8月
          
 『あたえる前には こころ楽しく、 あたえつつあるときには心を清浄ならしめ、 あたえおわっては こころ喜ばし』
             【「増支部《】
 この言葉を読んで私は戦場の体験を思い出すのです。戦争に敗けて収容所に入れられているときのことでした。
編成をとかれて、ごちゃまぜの兵隊が莫舎に生活していました。 
 私は臨時の中隊事務室ではたらいていました。
ある日のこと、ドーナツの特配があったので、私は中隊の各員にひとつづつ分配したのです。ところが、いくつか余りました。 
 事務室のものに分けても、まだ二つ三つ余ったのです。私は悪いこととは知りながら、みなが寝しずまった夜、そっとそれを食べたのです。
 長いあいだ甘いものに うえていた舌には、涙の出るほど おいしく しみこみました。
 しかし、そうして食べている自分を意識すると、やり切れなくなって、じつに後味の悪さだけが残ったにすぎませんでした。
 そのうち米兵から個人的にチョコレートをもらいました。こんどは ひとりでは食べませんでした。
 私には分ける めあてがあったのです。中隊で いつも要領の悪い人、その人に分けたらどうだろう、そう考えていると、だんだん  なんともいえず心楽しくなってきました。
 夜、散歩にさそって、草原の上でチョコレートを半分に割りました。
 そのとき相手のとった悪びれない態度は、いつまでも忘れられないものでした。
 かえって こちらがはずかしくなるようで、ほんとに心の清めらた思いがしたのです。
 「なさけは ひとのためならず《と もうしますが、まことに その通りだと思いました。
 こんどはドーナツのときのような 後味あとあじの悪さは全くなくて、いつまでも喜ばしい気持ちが残ったのであります。
 現在は 流通革命りゅうつうかくめいとかいいまして、 消費しょうひがさかんです。
 自分のために 消費しょうひするときには、じつに気前がいいのですが、人に与えるという 美徳びとくを忘れているようです。
 手に入れることばかりに夢中になって、与えることを知らないものは、自分のむさぼりの清められる 機会きかいを失い、静かな喜びを味わうことができません。
 
                      


※『光の言葉』  
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