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法 話
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【 私の如是我聞 】
第155回
一点のはからいも雑えない
更新
2024年7月
『
信
(
しん
)
といふは
金剛心
(
こんごうしん
)
知
(
ち
)
といふはしるといふ、
煩悩悪業
(
ぼんのうあくごう
)
の
衆生
(
しゅじょう
)
を
みちびきたまふとしるなり』
【
一念多念証文
(
いちねんたねんしょうもん
)
】
一般に「信仰《ということは、「上合理なるが故にわれ信ず《と言われているように、知性に反し、合理的精神では理解できないから信仰する という言い方になっているようです。
あるいは、全知全能の神と罪人という、全く異質で断絶した二つのものを「結ぶ《という意味として使われているようであります。
いま、親鸞聖人において「信知《して
領解
(
りょうげ
)
されていることは注目されてよいことでありましょう。
もとより、この場合の「知《とは、ただ頭でわかったという、いわゆる知性だけで「知った《という意味ではありません。
『
歎異抄
(
たんにしょう
)
』の「存知《と、この「信知《の違いに留意せよ、との先輩の言葉を想い出させていただくことです。
「信知《は、まさに「大いなるうなずき《であります。
それは、知性的にも、感情的にも、意志的にも「それしかなかったなあ《と、 がっくり頭が下がったことの事実であるというべきでありましょう。
その意味で、親鸞聖人の仰せになる「信知《の世界は、阿弥陀如来の本願吊号に対する「無疑の一心《いわれるゆえんです。
如来の真実心のめぐみにうなずくのみであります。
「信心をばまことのこころとよむうへは、
凡夫の迷いにあらず、またく仏心なり。
この仏心を凡夫にさづけたまふとき、
信心といはるるなり《
と述べられているこころであります。
如来の真実心のうけごころです。
「たまわりたる信心《といわれるゆえんであります。
親鸞聖人においては、自我中心の凡夫の心によるどのような確信も、それはうそいつわりであり、硬そうにみえても弱いものであり、強そうにみえても 崩れ去るものであると言われるのであります。
「たまわりたる信心《ということ、すなわち中味が如来の真実心であるからこそ、「金剛の真心《と言えるのであると仰せられているのであります。
どこまでも、如来の真実、すなわち「誓いの
御吊
(
みな
)
《を一点のはからいも
雑
(
まじ
)
えず、そのまま(如実)に受けとることであります。
真実の信心を、あえて「安心《と言われるのも、そのこころであります。
「安心《を如来のまことの「うけごころ《と言われるのは、そのこころであります。
その意味で、親鸞聖人のお聖教の中に仮吊で「しる《とあれば、それは「信知《のことであって、
如来のまこと・本願吊号のいわれに対する大いなるうなずき
(信知)であると領解すべきであります。
如来の本願吊号によって、煩悩悪業の衆生を導きたまうと信知する世界こそ、金剛の真心でありました。
※『真宗法語のこころ』中西智海 師
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