☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第154回  自分の悪い事はわからない 更新 2024年6月
          
 『人のわるき事は よくよくゆるなり、
 我が身のわるき事は おぼえざるものなり、
 わが身に知られてわるき ことあらばよくよく悪ければこそ身に知られ候ふとおもひて 心中しんちゅうをあらたむべし、
 ただ人のいふことをばよく信用すべし、
 我が悪きことは覚えざるものなる《
 由仰せられ候。 』
 
蓮如上人御一代記聞書れんにょしょうにんごいちだいきききがき】 

 真実を求めることに、人間は、それほどの魅力を感じないものです。
むしろ、 自愛じあいの感情に満足を得ることの方に、人は抗しがたい誘惑を感じるものです。
 自分自身を愛しようとする心は、いつも自分が他人より優れていることを見つけ出そうとします。
 もしも、他人とくらべて 見劣みおとりがし、みじめな自分をあからさまに見出せば、自愛の感情は、 えがたい苦痛に傷つくものです。
 こんなとき、この傷をいやすために、あさましくも、人の悪いところを見つけようと夢中になるものです。
 他人の悪いところを 指摘してきし、あるときは、あからさまに、あるときは暗に、非難を込めた目で他人を見ます。
 そして、自分を責めるべきなのに、他人を責めることでそれをごまかし、 自分自身は 体裁ていさいをつくろっているものです。
 小さい自分の 面子めんつを立てているのです。
 そこには、救いがたい我執、自愛の心、真実から見放された人間の迷妄だけがその 暴威ぼういをふるっています。
 自分の身の悪を知り、あらためようとすることのなかにこそ、人間らしさがあります。
 この人間らしさは謙虚であり、謙虚は人を真実へと導くものです。
 「真実ほど、恐ろしいものはない《とよくいわれます。
 人が自愛の感情にとらわれているかぎり、真実は恐ろしいものとなるでしょう。
 地獄一定じごくいちじょうと知らされるほどの我が身の姿に、自愛の心は、絶望の恐ろしい 深淵しんえんをのぞいて、おののきます。
 このおののきは、我執に根ざしています。
 真実は、このようなおののきを与えますので、人は、真実を求めることにためらいを感じます。
 しかし、真実を求めることを止めて、自愛の心に おぼれるなら、そこには、他人を非難することで一生を過ごす むなしい人生があるだけです。
 人は、自愛の心に溺れ、それゆえに、真実をおそれます。 しかし、如来の真実に照らされて知らされた、ごまかしのない私の姿は、慈悲の光の中で見出されたものですから、そこにおそれはなく、 むしろくだかれた心と、安らぎに包まれた自分があるだけです。
   



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