☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第153回  だれでも称えられる念仏 更新 2024年5月
          
 『 すみやかに 功徳くどく大宝海だいほうかい満足まんぞくせしと
 のたまへり』
 
           【一念多念証文いちねんたねんしょうもん】 

 群萌【ぐんもう】といわれるすべてのものが、お念仏一つですくわれてゆく理由について、一般によく言われるのは 「三歳の子供でも とな えることのできる、いわゆる易行【いぎょう】だからである《ということでありましょう。
 確かに「易行の念仏《ということは、念仏の選ばれた原理の一つであることには違いありません。
 しかし、よく味わってみなければならないことは
「三歳の子供も称えられる易行の念仏《とは、「中味の薄い、安易な行《という意味ではもうとうないということです。
 それは、すべてのもの、すなわち老いたるものも、若いものも、男であれ、女であれ、東洋人であれ、ヨーロッパ人であれ、関係なくすべてのものがすくわれるためには、 南無阿弥陀仏の六字にまで つづまらなければならなかった ということであります。
 従いまして、中味が薄くなったなどというような発想は 微塵みじんもないのです。
 そこには、念仏の選択に対する「勝易の二徳《
【しょういのにとく】という深い意味のあることがうかがえます。
 「万徳の所帰《【まんどくのしょき】といわれ
「円融至徳の嘉号《【えんゆうしとくのかごう】
「万行円備の嘉号《【まんぎょうえんびのかごう】
と言われるゆえんです。
 いま、この法語は
「功徳【くどく】とまふすは吊号なり《
と記され、
「大宝海【だいほうかい】はよろづの善根功徳
【ぜんごんくどく】みちきわまるを海にたとへたまふ《
と釈されています。
 吊号には、大宝海【だいほうかい】といわれる よろずの善根功徳【ぜんごんくどく】が満ちきわまっている 
と明かされ、次に重要な意味の法語が
「この功徳【くどく】をよく信するひとのこころのうちに、すみやかに疾【と】く満ちたりぬ としらしめんとなり】
と述べられています。
 吊号の功徳【くどく】は かなたに固然としてあるのではなく、吊号を信ずる人のこころのうちに速やかにとく満ちたりると言われるのです。
 すなわち、よろずの善根功徳【ぜんごんくどく】が、この身に満ちみつというのです。
 法語には このことを
「しかれば、金剛心【こんごうしん】のひとは、しらずもとめざるに、功徳の大宝その身にみちみつがゆえに大宝海とたとえたるなり《
と説き明かされています。
 このように、もっぱら念仏することによってすくわれるいわれとしての「勝易の二徳《ということを深く領解させていただかねばなりません。
 南無阿弥陀仏の六字の中に、真如一実の功徳宝海とも説かれる よろずの善根功徳が円【まど】かに備わり、それがもっとも勝れたもので、
しかも「その身《に満ちみちてくださること、
そして その広大深遠な功徳宝海が、いつでも、どこでも、だれにでも称えることのできる、つづまった念仏であることにうなずくべきであります。
 まことに極善最上の法が極悪最下の凡夫にめぐみ施される、本願・吊号の大道にめざめさせていただかねばなりません。  



※『真宗法語のこころ』中西智海 師
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