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法 話
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【 私の如是我聞 】
第150回
身体で読もう
更新
2024年2月
『 わたしは
身体
(
しんたい
)
で
読
(
よ
)
もう。
ことばを
読
(
よ
)
むことになんの
意義
(
いぎ
)
があろうか。
治療法
(
ちょうほう
)
を
読
(
よ
)
むだけならば、
病
(
や
)
める
人
(
ひと
)
にとってなんの
役
(
やく
)
にたとうか。』
【
菩提行経
(
ぼだいぎょうきょう
)
】
私たちはいろいろのものを読みます。新聞や週刊誌を読むことから、仏典を読むことまで、その段階はじつにさまざまです。
また、暇つぶしや娯楽のために読む、知識をうるために読む、修養のために読む、道を求めるために読むなどと、その読み方もいろいろです。
近ごろは娯楽のために読むのが多いようですが、あまりいい傾向ではありません。
もっとも、やたらに難しいものをありがたがるのも感心しませんが、苦労して読むというところに精神の鍛錬があるのです。
ただやわらかい、やさしいものばかりを読んでいたのでは、かんじんの考えるという力が退化します。
少しは歯ごたえのあるものを
噛
(
か
)
みこなしてこそ、ほんとうに心の
糧
(
かて
)
となるのです。
ところで、その「読む《ということはどういうことでしょう。
そこに書かれていることばの意味が分かり、理解できれば、いちおう読んだことになるでしょう。
しかし、たんに知識をうるためならそれでもいいでしょうが、たとえば仏典を読むなどというときは、それだけではなんにもなりません。
いうなれば、
薬
(
くすり
)
の
効能書
(
こうのうが
)
きを読むようなものでしょう。
いくらそれを読んでも病気はなおりません。
病気をなおすためには薬を飲まなければならないのです。
ほんとうに「読む《ということは、いわば薬を飲むことです。
だから頭で読むのでなくて、「身体《で読もうというのです。
私たちはどうかすると、頭で読んで身体で実行するのだと考えます。
しかしそうではなくて、身体で読むのでなければ、頭で分かるものではないのです。
自分の病いを知らない人だけが、頭で読んで得意になっているのでしょう。
親鸞聖人が、文法的にはいろいろ問題のある読み方をされたということも、じつはこのような全身をもって読むという読み方をされた結果だろうと思われます。
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