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法 話
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【 私の如是我聞 】
第149回
衆生めぐみすくわん
更新
2024年1月
『
諸仏
(
しょぶつ
)
の
出
(
い
)
でたまふゆえは、
弥陀
(
みだ
)
の
願力
(
がんりき
)
を
説
(
と
)
きて、よろづの
衆生
(
しゅじょう
)
を
恵
(
めぐ
)
み
拯
(
すく
)
はんと
欲
(
おぼ
)
しめすを、
本懐
(
ほんがい
)
とせんとしたまふがゆえに、
真実之利
(
しんじつしり
)
とは
申
(
もう
)
すなり』
【
一念多念証文
(
いちねんたねんしょうもん
)
】
あの人は頭がよいから、能力があるから、吊誉があるから、組織をもっているから、などという視点から人間の価値を表現しがちであるのが、今のこの世の現状といえるでしょう。
そこから塾の過熱化となり、教育ママの出現となり、能力主義のテストとなり、組織拡大には手段を選ばないという現実を生み出したともいえましょう。
これは、人間のいわば付属性に対する着眼であるといえましょう。
人間の価値はそのような「属性《にあるのではなくて「生命《そのものにあるといえます。
み仏の大悲は、頭がよいもの、能力がすぐれているもの、吊誉や地位の高いもの、金持ちや組織をもつもののみにそそがれることは毛頭ありません。
それは人間の属性を目当てとしてのはたらきではないからであります。
生命そのもの、そこに存在するもの それ自身にはたらく大悲だからであります。
まさに如来の大悲に落ちこぼれなどありません。
群萌とよばれる よろずの衆生をめぐみすくわんとする大悲大願であります。
ところで、親鸞聖人は『大無量寿経』の出世本懐の文、すなわち、 「如来、
無蓋
(
むがい
)
の大悲をもって三界を
矜哀
(
こうあい
)
したまふ《というところの「如来《を『教行信証』では「釈迦《とされています。
さらに、この法語の『一念多念証文』に至りますと「諸仏《と書かれています。
これは、まことに深い味わいが感知させられます。
釈尊がこの世に生まれたもうたゆえんは阿弥陀如来の本願海を説くことにあることは「正信偈《の「如来所以興出世、唯説弥陀本願海《のお言葉で、まことに鮮明であります。
いま、この法語にいたりますと、ひとり釈尊のみではなく、一切の諸仏がこの世に出でたもう故は、阿弥陀如来の大悲大願を説いてよろずの衆生をめぐみすくわんとするためであると述懐されているのであります。
もろもろの諸仏の本懐が、阿弥陀如来の願力を説いてよろずの衆生をすくうことであると述べられているということは、このしぶとい、あらゆる煩悩が具足しているこの私をめざめさせるためには、あらゆるみ仏の あらゆるてだてによるほかはなかったという感慨がこめられているとうなずかざるをえないのです。
まことに、極悪低下の凡夫に極善最上の法をめぐみほどこされることこそ「真実の利《であると
領解
(
りょうげ
)
されているのであります。
この諸仏の出世本懐にうなずくことこそ、それがそのまま私の出世本懐を言い当ててくださるのであります。
※『真宗法語のこころ』 中西智海 師
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