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法 話
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【 私の如是我聞 】
第148回
足下を見ねば
更新
2023年12月
『
行
(
ゆき
)
先向ばかり見て、
足下を見ねば、
履
(
ふ
)
みかぶるべきなり。
人のうえばかり見てわが身の上のことを
嗜
(
たしな
)
まずば
一大事
(
いちだいじ
)
たるべき。』
【
蓮如上人御一代記聞書
(
れんにょしょうにんごいちだいきききがき
)
】
人間は社会的存在なのですから、つねに他人の存在に気をつかっていなければなりません。
しかしそれも程度問題で、最近のようにマスコミの影響の大きい時代には、何もかもがマスコミに振り回されて、ともすれば自分というものを見失いがちです。
自分の考え方や、着物や、はてはレジャーのすごし方にいたるまで、マスコミのレディメードですましてしまうというのは、現代人の多くが、多かれ少なかれ身におぼえのあることなのですが、何ともさびしい気のすることです。
このように考えてくると、現代人はいろんな意味で自己を見失っているともいえるのではないでしょうか。
見失った自己を回復するということはなかなかの難事ですが、その真の深みにおいて自己を回復し確立するということは、仏法においてはじめて可能なことです。
仏法の世界では当然「自己《が問題の中心になります。
これに対して、信仰に入っていない人というのは、真の深みにおいて自己が確立していませんから、とかくごうまんになったり、ひくつになったり、そのゆれ動く振幅が大きいのではないでしょうか。
転変
(
てんぺん
)
する世界にあって、自己を見失わないということは、かわることのないみ仏に
照
(
て
)
らされ、まもられているということにおいて、はじめて
可能
(
かのう
)
なことなのではないでしょうか。
そして、そのみ仏の光に
遇
(
あ
)
うということは、かえって、私たちの足もとを
堀
(
ほ
)
り
下
(
さ
)
げることによって
可能
(
かのう
)
となるのではないでしょうか。
※『ひかりの言葉』
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