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法 話
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【 私の如是我聞 】
第147回
如来の誓願にめざめて
更新
2023年11月
『
恵
(
え
)
はめぐむと申す。
真実之利
(
しんじつしり
)
と申すは、
弥陀
(
みだ
)
の
誓願
(
せいがん
)
を申すなり。』
【
一念多念証文
(
いちねんたねんしょうもん
)
】
人間のいのちの仕組みを見つめてみますと、二つの大きな課題をいだいていると言えるようです。
一つは、生きがいとか、生きるしるしであるといえます。
今、いきいきと生きる意味を味わえるか、どうかということです。
もう一つは、人間はあてなき人生では生きられない、つまり、生きる目標が失われると生きられない存在であるということです。
それでは人間は、生きる意味、生きるしるしを知り尽くしてこの世に生まれたのでしょうか。
また、はじめから人生の目標をいだいて、うぶ声をあげたのでしょうか。
決してそうではありません。
それこそ泳ぎも知らないものが、いきなり大海に投げ出されたようなもので、身につけなくてはいけないものを知らないまま生れ出たというべきでしょう。
このように、人間は何のために生まれたのか、本当の意味も目標もわからずに
煩
(
わずら
)
い悩んでいるのです。
それでは、この私は絶望するしかないのでしょうか。
そこに、たった一つの道があります。
それは、み仏がこの世にあれたもうた
本懐
(
ほんがい
)
を聞かせていただくことによって、私がこの世に生まれた意味と目標をいい当てられていることに気づくことです。
いまみ仏は、この世にあれたもうた
本懐
(
)
は「真実の利《をめぐむためであると言われます。
「利《とは、もともと「めざめ《という意味と
「目標《という意味があると言われています。
人間は生きる意味がわからなかったら生きてゆけないと言われる時、めざめこそ生きるしるしであり、めざめて生きることこそほんとうの生きがいであると言われるのです。
あてなき人生を生きられない私に、真実の目標をめぐむことがみ仏のこの世にあれたもうた
本懐
(
ほんがい
)
であると知らされます。
いま、
群萌
(
ぐんもう
)
といわれるよろずの衆生に、真実のめざめと生きる目標をめぐむと言われる時、真実のめざめをもたらすものこそ、如来の本願を本願の通りに受けた 「たまわりたる信心《であり、真実の目標に生きるとは、本願のいわれをいわれの通りにうなずいたもののいのちの行方が、浄土と説かれる 「
真実功徳
(
しんじつくどく
)
《の世界に向かって生きる
往生浄土
(
おうじょうじょうど
)
の道である、言わねばなりません。
そうしてみれば、人間にめぐまれなければいけない真実の信心も、往生浄土の道も、
阿弥陀如来
(
あみだにょらい
)
の
誓願
(
せいがん
)
を聞く道のほかなきことを
信知
(
しんち
)
せしめられることであります。
まことに「真実の利と申すは、
弥陀
(
みだ
)
の
誓願
(
せいがん
)
を申すなり《と説かれた深い意味に、うなずかされることであります。
いまさらながら、本願にうなずき念仏申す人生のたしかさよと、喜びをかみしめたいものであります。
※『真宗法語のこころ』 中西 智海
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