☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第144回 一切の衆生しゅじょう病むをもってのゆえに、われ病む。 更新 2023年8月
          
 『 一切いっさい衆生しゅじょう むをもってのゆえに、 われ む。』
 
 【維摩経ゆいまきょう】      
 
 子供の世界というのは自分中心の世界です。子どもは自分のためにすべてのものがあるのだと考えているようです。
 ですから、、自分を真ん中にしてみながチヤホヤしてくれるときはごきげんですが、大人どうしが話しはじめて、自分がおっぽり出されると、とたんにむずかります。
 子どもというのは、他人の存在が分からないのです。
 だんだん大きくなるにつれて、他人の存在ということが分かってきます。
 ひとの気持ちを理解するようになります。
 子どもが遊ぶということは、その間に他人との結びつきを学んでゆくという意味で大切なことです。
 こういう点から考えますと、大人というのは、他人が分かる人間、分かるだけでなくて他人のことを心配することの出来る人間ということができましょう。
 私自身の生活をふり返って見ますと、学生の時代というのは忙しいようでも、じっさいはいちばんひまであったと思います。
 時間的にもそうなのですが、何よりも、「自分のことだけ心配しておればよい《身であったからだと思います。
 社会人となり、一家を持つようになると、そういうわけにはまいりません。
 どうかすると、それをうるさく思うことがあります。
 しかし、ひとのことを心配するようになったということは、ほんとうに大人になったということです。
 そこに自身のつとめを見つめて行きたいと思います。
  菩薩ぼさつというのは、自分だけ先に高い所へいって、人びとにここまで来いとおっしゃるのではありません。
 自らのためでなく、 衆生しゅじょうの病いのために病み、まず 衆生しゅじょうをわたらさなければ自分はわたらないといわれるのです。
 「己れ いまだわたらざるにまず人をわたす《のが 菩薩ぼさつの精神であるといわれる 所以ゆえんです。
 ここに仏教者の生き方が示されていると思います。
   



※『ひかりの言葉』 
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