このページはインラインフレームを使用しています。
このページはインラインフレームを使用しています。
☆☆
法 話
☆☆
【 私の如是我聞 】
第143回
如来
(
にょらい
)
の真実のまなこ
更新
2023年7月
『 われまたかの
摂取
(
せっしゅ
)
のなかにあれども、
煩悩
(
ぼんのう
)
のまなこさへて、 みたてまつるにあたはず といへども
大悲
(
だいひ
)
ものうきことなくして、 つねにが
身
(
み
)
を
照
(
み
)
らしたまふとのたまへり』
【
一念多念証文
(
いちねんたねんしょうもん
)
】
本願にうなづき念仏申す行者の実感は「摂取上捨《(せっしゅふしゃ)であることを先に確かめてみました。
しかし、その摂取上捨(せっしゅふしゃ)の喜びの実感とは何の悩みも悲しみも起こらない直線的な状態ではありません。
言い
換
(
か
)
えれば、如来の光の中であるから、くもることも、影もないということではないのです。
光が強ければ強いほど、影は大きく、太く見えるのです。
影の深さと太さが見えてきたのは、そのまま光の強さと深さをあらわすといった方がよいでしょう。
いま、如来の
摂
(
おさ
)
め取って捨てないとの光明のただ中にあっても、煩悩にまなこさえられて光明を見ることができないことが悲しまれてきたのです。
しかし、この煩悩によってまなこがさえぎられていることを悲しませたものこそ、如来の智慧であり光明のはたらきです。
もしも、如来の智慧、すなわち、光明のはたらきがなかったら、煩悩の生活を悲しむどころか、当たり前であると開き直って終わってしまうでしょう。
信心とは、「たまわりたる
明晰
(
めいせき
)
の眼である《と言った人がいますが、いままで感じられなかったことが、驚きの心で見すかされてくる世界であるというのです。
いま、たまわりたる如来の真実の眼によって、いままで当たり前であると単純に認めようとしていた煩悩のあさましさが強く、深く悲しまれてくるのでありました。
それは、また、深い
恥
(
は
)
じらいであるといえましょう。
信心のはたらきは、深い悲しみ、痛み、恥じらいを生むといってよいと思います。
煩悩とそれによって、生み出される
火宅無常
(
かたくむじょう
)
の世界が悲しまれ、痛まれてくるはたらきが、信心に必ずそなわっているのです。
「悲しき哉《 そこには底知れない煩悩と煩悩そのままの自らと、それらよってもたらされる現実への悲しみと痛みがあります。
よくよく煩悩の
熾盛
(
しじょう
)
であることが実感されます。
その
煩悩熾盛
(
ぼんのうしじょう
)
のものをこそ上断に照らし続けてくださる「誠なる哉《といわれる摂取上捨(せっしゅふしゃ)のはたらきが実感されます。
うなずいてみれば「慶ばしい哉《です。
まことに本願にうなずき念仏申す信心の行人の道は 「
三哉
(
さんさい
)
《の味わいという反復運動ともいうべき歩みであります。
それにつけても「大悲ものうきことなくしてつねにわがみをてらしたまふ《とのお言葉の重さと深さをしかと「身に受け《、「うけたまわりさだめ《る生活の歩みを続けたいものであります。
※『真宗法語の心』 中西 智海
本願寺出版社
お経の本やCDや仏書の販売
西本願寺の本
本願寺出版社
本願寺
ホームページ
本願寺ホームページにて、本願寺の法話のラジオ放送を本願寺ホームページのウェブサイトで聞けます。
沢山の法話が聞けます。ぜひ一度聞いてみて下さい。
西本願寺ホームページ
今生最後と思うべし
一このたびのこのご縁は
我一人の為と思うべし
一このたびのこのご縁は
初事と思うべし
一このたびのこのご縁は
聴聞の心得
トップページへ
法話に戻る
書庫をみる
このページはインラインフレームを使用しています。