☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第141回 念仏者は無碍むげの一道 更新 2023年5月
          
 『まもるといふは、 異学 異見いがく・いけんくのともがらにやぶられず、 別解・別行べつげ・べつぎょうくのものにさへられず、 天魔派旬てんまはじゅんくにをかされず、 悪鬼・悪神あっき・あくじんくなやますことなしとなり』
 
 【一念多念証文いちねんたねんしょうもん】      
 
 本願にうなずき念仏申す信心の行者の生活態度は「摂取上捨《(せっしゅふしゃ)の実感であると言えましょう。
 われ、まもられてあり、われ、つつまれてあり ということです。
 それでは その「われ、まもられてあり、われ、つつまれてあり《という実感を生活に即して言うならば、どういうことになるのでしょうか。
 それは、この法語の言葉で言えば「異学・異見のともがらに やぶられず、別解・別行のものに さへられず《ということでありましょう。
 つまり、摂取上捨の如来の願力に生かされる世界は まさに如来の選ばしめたもうものを選び、如来の捨てしめたもうものを捨てて生きるという根本的な姿勢が生まれてくるということであります。
 思えば、今日ほど、さまざまな意見や考え方があらわになっている時代はなく、よく見ぬき聞きぬいてみると、自分の立場や自分の属している組織の利己主義から発している理屈や、理論の構築が多いように思われます。
 あるいは信心の世界を語るにしても、自分の意識の上で強固なものが信心と思い込み、それを信心と言いはってみたりするようなことがありますが、いま一度、信心のみぞをさらえさせていたたがねばなりません。
 親鸞聖人は、如来から たまわりたる信心であるから金剛の信心と言えるのであると教えてくだされています。
 すなわち如来の真実心が めぐまれたのが信心であり、言いかえれば信心の中味は如来の真実心であると言われるのであります。
 ですから如来の真実心が破られたり、さえぎられたりするわけがないと説き明かしてくだされているのであります。
 われ、如来のまこととともならば、如来の智慧と慈悲とともならば、何ものにも破られず、さえぎられない ほんとうの うなずきある道が ひらかれてゆくという実感が めぐまれるのであります。
 その一筋の道は、まさに 無碍むげの一道であります。
 この法語でいえば、「天魔派旬に をかされず、悪鬼・悪神なやますことなし《という道であります。
 まことに、如来の選ばしめたもうものを選び、如来の捨てしめたもうものを捨てて生きる念仏者の道とは、何ものにもさえぎられず、破られず、おかされず、なやまされることのない一筋のみちであります。
 それはそのまま゜念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・ 地祇ちぎ敬朊きょうぶくし、魔界、外道も 障碍しょうげ することなし(歎異抄)との世界に通ずるものであります。   



※『真宗法語のこころ』 中西 智海師
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