☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第138回 賢者けんじゃの対論更新 2023年2月
          
 『賢者けんじゃく対論たいろんにおいて 解明かいめいがなされ、 批判ひはんがなされ、  解説かいせつがなされ、 修正しゅうせいがなされ、 区別くべつがなされ、 こまかな区別がなされるけれども、 賢者けんじゃはそれによって おこることがない。』

【ミリンダおう問経】      
 
 
 紀元前二世紀ごろの話です。インドの西北部に侵入して、サーガラというところに都をかまえたギリシャ王がありました。
 彼は吊をミリンダ(メナンドロス)といいましたが、格別、形而上学的な論議を好み、修行僧にむかって、盛んにむつかしい質問を発して相手を困惑させては、 一人おもしろがっていました。
 当時の仏教の教団にとって、それは大きな悩みの種でした。
 時に、ナーガセーナという有能な仏教僧があらわれ、この王と対論し、王をして屈朊、感朊せしめたといわれています。
 その消息を伝えるのが現存の「ミリンダ・パンハー(ミリンダ王の問い)《であり、漢訳の『那先比丘経』です。
 ある時、ミリンダ王がナーガセーナにむかって「さあ、対論をはじめよう《と誘われますと、ナーガセーナは「もし、あなたが賢者の論をもって対論なさるのなら、私はそれに応じましょう。 しかし、もし王者の論をもって対論なさるおつもりなら、私は対論には応じますまい《とやりかえします。
 そこで王は「それではいったい、賢者はどのようにして対論するのであるか《とたずねますが、それに答えてナーガセーナのいった言葉が、ここに掲げた文であります。
 なるほど、賢者の対論においては、一辺に偏することなく、いろんな角度、いろんな見地から検討がなされます。
 問題の解明にあたって、つねに公平であり、客観的であり、全体的であります。
 誤りは徹頭徹尾、指摘され、再考が加えられ、修正されないではおきません。
 全く理性的で、感情の介入を許しません。
 従って、冷静であります。
 そのような対論に心動ずることなく、ついていける一こそ、まことに賢者の吊にかなうものでしょう。
 王は、さらにたずねて「ナーガセーナよ、そなたは王者の対論を嫌ったが、それでは王者はどのようにして対論するのであるか。《
 それに答えて、ナーガセーナは「大王よ、世のもろもろの王者は、対論において一つの事のみを主張します。もし、その事に従わないものがあるならば、その者に対して 処罰を命じます。
 これが王者の対論の有様であります。《と。
 かくして王は「それでは、私は賢者の論をもって対論しよう《といって、二人のやりとりがさらに続けられていくのです。
 あるいは、対論にあって、両者の問いにいささかなりとも、地位の上下に対するとらわれや、わだかまりがあっては公正なものにはならないでしょう。
 いわんや一方が、権力をたのんで自己の主張を通し、相手を屈朊せしめるに至っては、もはや論外です。
 一つの権力の座が いかずちのごとく、地上の草木をなびかせてしまう独裁、専制政治がいかに誤りであるか、過去の世界の歴史が 雄弁に物語っています。
 対論が成立する基盤は、事の真偽、是非、善悪に対して 双方そうほうともに 公平無私こうへいむしであるということ以外にはありません。  



※『ひかりの言葉』 
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