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法 話
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【 私の如是我聞 】
第137回
如来
(
にょらい
)
の力による道
更新
2023年1月
『
横
(
おうく
)
はよこさまにといふなり、
超
(
ちょう
)
はこえてといふなり。 これは
仏
(
ぶつ
)
の
大願業力
(
だいがんごうりき
)
の
船
(
ふね
)
に
乗
(
じょう
)
じぬれば、
生死
(
しょうじ
)
の
大海
(
だいかい
)
をよこさまにこえて
真実報土
(
しんじつほうど
)
の
岸
(
きし
)
につくなり』
【
一念多念証文
(
いちねんたねんしょうもん
)
】
「さとり《の岸に到る道に難行道と易行道があると示されたのは龍樹菩薩でありました。
ところで、
難行道
(
なんぎょうどう
)
とは むつかしい道であり、
易行道
(
いぎょうどう
)
とは やすい道であるといわれる時、「やすい《ということは、ややもすれば安易な道、 やすっぽいことのように とりがちなところがないでしょうか。
実は、そのことを
龍樹菩薩
(
りゅうじゅぼさつ
)
にたずねてみますと次のようになります。
難行道というのは、たくさんの行(諸)をながい時間(久)をかけて、しかも自分の力で励む道ですから怠けると
堕落
(
だらく
)
する(堕)というので、これを諸・久・堕の三難といいます。
それに対して
易行道
(
いぎょうどう
)
とは ただひとつの行(一)で、すみやかに
上退
(
ふたい
)
の
位
(
くらい
)
に入り(速)しかも仏の力による道であるから、もうとう
堕落
(
だらく
)
することがない必ずさとりの岸に到る(必)道ということで、これを一・速・必の
易行道
(
いぎょうどう
)
というのであると述べられています。
それでは、どうして
易行道
(
いぎょうどう
)
とは ただ一つの行でよいのでしょうか。
それは ただ念仏、すなわち、もっぱら念仏の一行(専修念仏)は、如来の本願のこころに かなっているからであるといわれるのであります。
次にどうして、速やかにさとりをうることができるのであるかといえば、
阿弥陀如来
(
あみだにょらい
)
を
増上縁
(
ぞうじょうえん
)
とするからであると言われているのであります。
そして必ずさとりの岸にいたるのは
如来
(
にょらい
)
の
本願力
(
ほんがんりき
)
による道であるからだと説かれるのであります。
要するに、 「
易行道
(
いぎょうどう
)
《とは、 「
如来
(
にょらい
)
の
本願力
(
ほんがんりき
)
に
乗
(
じょう
)
ずる
道
(
みち
)
《であるということなのであり、やすっぽいとか、安易な、という意味は かけらもないのです。
如来の絶対力にまかせきる道であります。
如来の本願力にすべてまかせる世界は、如来の大願業力の そのままのはたらきが欠けたることなくはたらく世界であります。
いま、この
法語
(
ほうご
)
は ここのところを 「仏の大願業力に乗じぬれば、生死の大海を よこさまに こえて真実報土の岸につくなり《と説き明かしてくだされているのであります。
「よこさまにこえる《力は如来の絶対力、大願業力であります。
如来の大願業力によるがゆえに、この苦しみ悩む生死の大海をよこさまに超えしめられ必ず如来の願力の はからいによって
誓願
(
せいがん
)
に報われた真実の浄土に向かわしめられるのであります。
まことに、大願業力の船に乗ずる
易行道
(
いぎょうどう
)
こそ、すべてのものが必ずさとりの岸に向かわしめられる道なのであります。
老少上定
(
ろうしょうふじょう
)
の
群萌
(
ぐんもう
)
が仏に成ることのできる道でありました。
※『真宗法語のこころ』 中西 智海師
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