☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第136回 学道がくどうの人更新 2022年12月
          
 『学道がくどうくひと世間せけんひとに  知者ちしゃ、もの知りと しられては 無用むようなり』

正法眼蔵随聞記しょうぽうげんぞうずいもんき】      
 
 時代のうつり変わりとともに、読まれるものも変わるとみえて、近ごろの題吊には、そのものズバリのものが多くなりました。
 例えば、『人を笑わせる術』『あなたはどうすれば目立つか』『やりたいことがやれる本』といった具合です。
 つまり、処世術が中心的なものになり、あまり苦労をせずに何かをやりたいという人たちの、手引きのようなものです。
 このような種類の本が 氾濫はんらんするということは、処世のためには、一面、広く浅く何でも知っておかねばならないということが時代の要求であるかのように 考えられているからです。
 確かにそれは時代の風潮であり、インテリといわれる人も例外ではありません。
 人間は、だれでも もの知りでありたいと願っています。
 他人より物をよく知っているということだけで、何か優越感をもって偉くなった気がします。
 だから、何も知らない人だと思われないように、自分をたえず かばい通さねばなりません。
 とにかく しんどいことであります。
 仏道を学び、仏法を信じていく者にとりましては、物知りだと思われることはかえって大いに さわりとなります。
 これこれの経典の言葉を知っているのだと りきかえっても、 仏道ぶつどう実践じっせんには、どれほどの役に立つのでしょう。
 仏祖ぶっそかれたところを、自分が信じ、 同行どうぎょうの人たちに つたえていくものにとって、物知りになることは 無用むよう好奇心こうきしんでしかありません。
 それは志に すき間のあることであり、かえってそれが道の邪魔にさえなるのです。
 本当のものを求めるのは苦しいですが、物知りになるのは面白いことであるからです。
  『随聞記ずいもんき』には、もと 顕密けんみつ碩学せきがくといわれた高野の空阿弥陀仏が、 隠遁いんとんの生活に入り、念仏三昧で過ごされたようになったのち、ある人が たずねて、真言の教えを聞きましたところ、 上人は「みんな忘れてしまった。一字も おぼえていない《といわれた ということが記されています。
 また 蓮如上人れんにょしょうにんも「牛を盗みたる人とは言はるとも、当流の すがたを みゆべからず《といわれていますが、 仏法を志すものの味わわねばならない ことばです。  



※『ひかりの言葉』 
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