☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第134回 如来にょらいの室、衣、座 更新 2022年10月
          
 『 如来にょらいの室とは 一切衆生いっさいしゅじょうの中の 大慈悲心だいじひしんこれなり。
 如来にょらい の衣とは 柔和忍辱心にゅうわにんにくしんこれなり。
 如来にょらいの座とは 一切法空いっさいほうくうこれなり。』

          【法華経ほけきょう】      
 
 仏滅ののち、仏法を弘めるものがのっとるべき規範を示したものとして、これはふつう「弘経の三軌《ともいわれております。
 それらの人びとは「如来の室に入り、如来の衣を着て、如来の座に坐し、《広く大衆のために経を説きなさい、と示されております。
 では、如来の 衣座室えざしつとは何であるかということが、このことばであります。
 すなわち、室とは慈悲の室であり、衣とは忍辱の衣であり、座とは法空の座であります。
 慈悲の心をもって人びとを おおうこと、あたかも室のようであり、忍辱の心をもって人びとの悪やさわりをさえぎること、あたかも衣のようであり、 一切のものにとらわれなければ、自ら安んじ、また他の人をも安んずることができる、それは座のようである、というのです。
 ひるがえって、私たちの生活を反省してみましょう。
 私たちは慈悲の室にすまっているでしょうか。
 むしろ人を押しのけてでも自分の地位を固めたいというような、あさはかな競争心とむさほりの室に住んでいるようです。
 また、私たちは忍辱の衣を着ているでしょうか。
 人の あなどりをうけて心にうらみと怒りをいだき、報復を思ってかえって悪を助長しているのではないでしょうか。
 人の あなどりをも あなどることのできるほど 高邁こうまいな心をもちたいものだと思います。
 忍辱とはいやいやながら辛抱することではなくて、
 安忍、つまり安んじて忍ぶというのです。
 また私たちは空の座に坐っているでしょうか。
 私たちの心の坐りどころは、むしろ上平上満ではないでしょうか。
 何か充たされない気持ちを、もっぱら外に向けて、
 ぐちをいっていることが多いのではないでしょうか。
 また人に向かって何かを主張するときでも、とらわれのない立場からする主張するのではなくて、ともすれば自己中心という座に坐っていることが多いと思います。
 それではどんなにいいことをしゃべっても、ほんとうに正しい法を弘めることにはなりません。



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