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法 話
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【 私の如是我聞 】
第133回
衆生
(
しゅじょう
)
が救われる極意
更新
2022年9月
『
回向
(
えこう
)
は、
本願
(
ほんがん
)
の
吊号
(
みょうごう
)
をもって
十方
(
じっぽう
)
の
衆生
(
しゅじょう
)
にあたへたまふ
御
(
み
)
のりなり。』
【『
一念多念証文
(
いちねんたねんしょうもん
)
』】
およそ、さとりの世界の遠大さのみを説くのは宗教ではなく、そのさとり、まことに至る道を教えるところに宗教の生命があるといわねばなりません。
どれだけさとりの彼岸の世界を詳しく説明しても、それへ到達する道程がなければすくいはありえないのであります。
そして、いまひとつは、宗教の極意は、すべてのものがすくわれる道でなければなりません。
いま、この法語は、この二つの要道を見事に言いあてたお言葉であると味わうことであります。
さとるのにはさとる因がなければなりません。
仏に成るのには仏に成る因がなければなりません。
因がなくて果を得ようとするのは筋が通りません。
いま
煩
(
わずら
)
い悩みから離れることができない凡夫は、真如の理法に一秒間も違反せず、縁起と無我のこころに 一刹那もさからわないことはできませんから、さとりの因、仏に成る因となる真実はありえないということになります。
それでは絶望なのでしょうか。
親鸞聖人は「如来すでに発願して衆生の行を
回施
(
えせ
)
したまふの心なり「教行信証《と述べられています。
つまり、如来が因となるべきすべての徳を成就してくだされて、しかもそれを一切の衆生にめぐみ施してくださるのである、と述べられているのです。
成就されたすべての徳をめぐみ施さない限り、衆生のもの、衆生の因にはならないのでありました。
まことに如来の大悲は群萌といわれるよろずの衆生にかけられているのであります。
よろずの衆生ですから老少善悪のひとを選ばないのです。
従って、いかなる悪人、すなわち、どのような煩悩具足のわれらにも、いや、そのわれらにこそかけられているのが。如来の悲願なのであります。
その悲願の通り成就された法が南無阿弥陀仏の吊号なのであります。
「誓願成就の吊号《であり、「誓いの御吊《といわれるゆえんであります。
ここに、極善最上の法が極悪底下の凡夫に回向される法こそ、本願吊号によるすくいの道なのであります。
もし、この回向の法がなかったら、よろずの衆生がすくわれる道、衆生往生の因果はなかったのであります。
してみれば、この回向こそ、よろずの衆生をすくうことの極意であるというべきであります。
煩い悩みからはなれることのない私においては、ありうべきもないすくいの因である信心開発は、全く如来からのめぐみ施しであったのであります。
回向とは、まさに驚きと感動の論理とうなずかれる事実なのでありました。
※『真宗法語のこころ』 中西 智海 師
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