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法 話
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【 私の如是我聞 】
第132回
愚
(
おろ
)
かと知る
更新
2022年8月
『
愚
(
おろ
)
かなりとて
自
(
みず
)
からに、愚かと知るは賢こけれ、
身
(
み
)
も賢しとほこる人、 げに
愚
(
おろ
)
かとはいわるなれ。』
【『
法句経
(
ほっくきょう
)
』】
「己れを知り的を知らば百戦あやうからず《。理屈の上では、百も承知なのですが、それを実現するとなるとなかなか出来にくいものです。
それほどに自己を知るということはむつかしいものです。
私は都会の交通の雑踏の中で、毎日、スクーターを乗り廻しているものですから、毎日のように「ハッ《とするような場面にぶつかります。
横合から、急に車がとび出してきたり、前を走っていたタクシーが急停車したりした時など、もう「ダメ《かと思ったことも何回かありました。
これなども、自分の車の性能もわきまえずに、タクシーなどと競争するかのように、スピードを出し過ぎているから起こるのですが、 他人の事ながらハラハラするのは、50cc級のカブなどでスピード上げて、狭い道をつっ走ったり、他の車を抜いたりする人が多いことです。
なるほど、カブのような小さい車でも50キロ-60キロとスピードが出ることは出るのですけれど、普通の道で、それだけのスピードを出せば、 安全性という点では全く保証など出来るものではありません。
急ブレーキをふんで、てんとうして大事にいたったり、その他数知れぬ悲劇を引き起こす今日このごろです。
ドライバーの熟練の度合いと車の性能、それに道路事情などをかんがえて、余裕を持って車を運転するというのが常識でしょう。
車のばあいには交通事故ということで直ちに結果が現れてきますが、精神の問題ついても同じ事がいえましょう。
ただ精神のばあいは、いろいろと複雑な事情がからみあうので、何を尺度として自分を計ればよいのかが問題となりましょう。
ある人たちはそれを倫理に、また他の人たちはそれを哲学に求めました。
しかし、それらはごく限られた側面から人間を計る ものさし に過ぎません。
やはり終極的には、慈悲と智恵の仏さまを はかり とすべきです。
そのときに自らの愚かさが知らされます。
私たちには三種の ものさし があると考えられます。
一つは 搊得の ものさし、二つは善悪の ものさし です。
そこまでは
世間
(
せけん
)
の ものさし ですが、それだけでは充分ではありません。
最後の ものさし、それは仏意にかなうかどうか
という ものさし です。
それによってこそ、私というものの真相が知らされるのです。
※『ひかりの言葉』
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