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法 話
☆☆
【 私の如是我聞 】
第124回
平等
(
びょうどう
)
の態度
更新
2021年12月
『 村にあっては、
罵
(
ののし
)
られても
敬礼
(
けいれい
)
されても
平等
(
びょうどう
)
の態度で
臨
(
のぞ
)
め。
罵
(
ののし
)
られてもこころに
怒
(
おこ
)
らないように
注意
(
ちゅうい
)
し、
敬礼
(
けいれい
)
されても高ぶらずにふるまえ。』
【『
経集
(
きょうしゅう
)
』】
私たちは、自分ではそんなことはないと分かっていても、他人からほめられるとなんとなくうれしいものです。
その反対に、
罵
(
ののし
)
られたり、
欠点
(
けってん
)
をいわれると、つい腹を立て、自分が
上愉快
(
ふゆかい
)
になるばかりか、人をも上愉快にしてしまいます。
それにくらべ、ほめられたり、人から頭を下げられることは、何度あっても別に悪い気はしない。
それが
度
(
たび
)
かさなると、いつの間にか高慢になっていくのです。
ですから、よほどしっかりしないと、だれでもあぶないものだと思います。
自分はそんなことはないと思われるなら、そもそもその思いがあぶないのです。
いずれにしても、怒りや
高慢
(
こうまん
)
は、
自己
(
じこ
)
を正しく知らないことから起こるのです。
じつに、人の
欠点
(
けってん
)
というものはよくわかるが、自分の欠点には気がつかないものです。
人から、あなたはこんなところが悪いといわれたとき、君もじゃないかと、ただに相手の欠点をあげる人がいます。
そんな人にかぎって、人は
信用
(
しんよう
)
ならないとか、社会が悪い、親が悪い、ああ、なんと人生は
無意味
(
むいみ
)
なんだろう、などとぐちる人が多いものです。
そんな人は、
世間的
(
せけんてき
)
には
地位
(
ちい
)
があっても、一人の人間としては、あわれな人です。
人からは好かれず、また
周囲
(
しゅうい
)
の人を
上愉快
(
ふゆかい
)
にし、人生のほんとうのよろこびを
味
(
あじ
)
わうことができない人です。
その
反対
(
はんたい
)
に、
欠点
(
けってん
)
をいわれると、ああそうでしたか、と
素直
(
すなお
)
に
反省
(
はんせい
)
する人があります。
そんな人にあうと、
逆
(
ぎゃく
)
に欠点をいった自分がかえってはずかしくなることがあります。
そんな時はお互いに、「すいません《ということばが
素直
(
すなお
)
にでて、おおらかな気持ちになるものです。
そんな人は、人間として
立派
(
りっぱ
)
であり、
周囲
(
しゅうい
)
の人びとを明るくし、しみじみと生きる
尊
(
とうと
)
さを味わう人であります。
また、その人こそ、じつによく自己を知って歩んでいる人だと思います。
ほんとうに
自信
(
じしん
)
のある人こそ、かえって
素直
(
すなお
)
に自分の
非
(
ひ
)
を認めることができるものです。
※『ひかりの言葉』
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