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法 話
☆☆
【 私の如是我聞 】
第121回
煩
(
わずら
)
い悩む人は夜が長い
更新
2021年9月
『
無明長夜
(
むみょうじょうや
)
の
灯炬
(
とうこ
)
なり
智眼
(
ちげん
)
くらしとかなしむな
生死大海
(
しょうじだいかい
)
の
船筏
(
せんばつ
)
なり
罪障
(
ざいしょう
)
おもしとなげかざれ』
【『
正像末和讃
(
しょうぞうまつわさん
)
』】
寝
(
い
)
ねざるものに 夜は長く つかれしひとに
路
(
みち
)
遠し
正しきみ
法
(
のり
)
わきまえぬ 愚者に流転の 世は長し
これは『法句経』(第六十)の言葉であります。
あれやこれやと煩い悩んで寝ることのできないものには夜は長いのです。
過ぎ去ったことに
執
(
と
)
らわれ、生きがいも死にがいも感ずることなく路をゆくものには暗くて長いのであります。
そして、ほんとうの智慧がないばかりに愚痴と言い訳に明け暮れている人には流転の世は長いのです。
思えば、ほんとうの智慧がなく、煩い悩みから離れることができないわれわれは それゆえ惑い、惑いから生み出される行為は苦悩の世界をもたらすのでした。
苦しみ悩むから、また惑い、それからもたらされる行為がまた苦を生み出すのです。
これこそ、まさに「流転《の生であると言わねばなりません。
この惑いと行為と苦を経めぐる生き方にその根本からメスを入れて流転の生をまさに まさに変革させるものこそ、如来の悲願なのであります。
阿弥陀如来の本願こそ 煩い悩みの流転の長夜を照らす「ともしび《なのです。
この和讃の
左訓
(
さくん
)
に「つねのともしびを みだのほんぐわんに たとへ まふすなり《と述べられています。
「つね《の ともしびでありますから、阿弥陀如来の本願のともしびは、過去を照らし、現在も照らし、未来をも照らしてくだされるのであります。
未来だけを照らす光は つね ではありません。
今だけを照らすものは つね ではないのです。
まして過去のみ照らすのは つね ではないのです。
いま、阿弥陀如来のおおいなる智慧に見抜かれ、しかも
摂
(
おさ
)
めとって捨てたまわぬ本願の つねの ともしび に照らされているのですから、 この私が真実を見る智恵がないと悲しむことはない、と うたわれているのです。
まさに「仏かねてしろしめして《と言われるゆえんであります。
また、阿弥陀如来の悲願は、めざめなき生死の大海に渡す船であり、
筏
(
いかだ
)
であるから、おのれの罪の
障
(
さわ
)
りが重いと
嘆
(
なげ
)
く必要がない と うたわれたのであります。
この和讃のこころは、とりもなおさず『教行信証』(総序)の
「
難思
(
なんじ
)
の
弘誓
(
ぐぜい
)
は
難度海
(
なんどかい
)
を度する大船、
無碍
(
むげ
)
の光明は
無明
(
むみょう
)
の
闇
(
あん
)
を
破
(
は
)
する
恵日
(
えにち
)
なり《
とのお言葉に連動することは明らかであります。
まことに、阿弥陀如来の本願は 渡ることが困難である大海を必ず渡してくだされる大船であり、
無碍光如来
(
むげこうにょらい
)
の ともしび は煩い悩みの長夜を照らしてくだされるのであります。
※『真宗法語のこころ』中西智海 師
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