☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第120回 毀誉褒貶きよほうへんは世の習い更新 2021年8月
          
 『ただそしられるのみの人、
  またただほめられるのみの人は、
  過去にもなかったし、
  未来にもないであろう、現在もない。』

     【『法句経ほっくきょう』】      
 
 ほめることと、そしること、 毀誉褒貶きよほうへんは人の世のならい、とか申します。
 他人のことがすぐ口の端にのぼり、あそこが良いとか、ここが悪いとか、全くもってうるさい限りです。
 しかし、いつもほめられてばかりいる人はおりますまいし、また、そしられることだけしか知らぬ人もめったにいないはずです。
 聖人、君子だからといって、ほめられるとは限らず、悪党だからといって、もっぱらそしられるとは限らない。
 そこがこの世のおもしろいところでありましょうか。
 お釈迦さまでさえ、八十年のご一生の間に、いくどとなく 罵詈讒謗ばりざんぽうの雨をお受けになったということです。
 その相手は、だいたい、お釈迦さまの吊声をねたむ 外道げどうの人たちでした。
 外道とは仏教と道を異にする人びとの総称ですが、なかでも、お釈迦さまの 従弟いとこにあたる 提婆達多だいばだったのことを忘れてはなりません。
 彼は生涯、お釈迦さまに反旗をひるがえし、その身に危害を加えようとまでした極悪非道な人でありました。
 そのような提婆ではありましたが、後世の仏教の論典のなかではかえってほめ たたえられているのです。
 つまり、こうです。
『提婆はなるほど悪業を重ねて、生きながら地獄におちたと伝えられている。
 しかし、提婆のおかげで我われは悪業の終りと、その報いの惨めさとを知らしめられた。
 いわば 提婆だいば他山たざんの石となって我われを 引導いんどうしてくれたのであり、その意味では 善巧方便ぜんぎょうほうべんの菩薩さまであった』と。
 有吊な『法華経』の中で提婆の成仏することが予言されていることを考え合わせると、あながち、それは 穿うがちすぎた解釈とも、また得手勝手な味わいともいえません。
 それにしても、まことに人生は複雑であります。
 提婆だいばのように存命中はそしられること多くとも、 死んでから後ほめられる場合もありましょうし、その全く逆の場合もあります。
 目の前ではほめられても、かげでは悪しざまにいわれていたり、また、とげ を含んだ味の悪いお世辞を耳にしなければならない時もあります。
 そのたびごとに、 一喜一憂いっきいちゆうして、小さな胸をいためているのが、まことにあわれな我われの姿でしょう。
 しかし、お釈迦さまのような聖人においてすら、そしられることがあり、提婆のごとき罪びとにおいてさえ、ほめる人はあります。
 ほめられることをねがい、そしられることを いとうのは人間の自然の情とはいえ、いつわり多く まことの少ない ことに心を もてあそばれて安きを得ないということは、あまりにも悲しいことではありませんか。



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