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法 話
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【 私の如是我聞 】
第118回
愚
(
おろ
)
かなる者
更新
2021年6月
『
愚
(
おろ
)
かなる
者
(
もの
)
は、
牛
(
うし
)
のごとくに
老
(
お
)
ゆ。
かれの
肉
(
にく
)
はませども、かれの
智
(
ち
)
はますことなし』
【『
法句経
(
ほっくきょう
)
』】
「あけまして、おめでとうございます《あらたまの年の初めを迎えて、人びとはこう言葉をかわします。
お雑煮や、かずのこなどの料理がのった元旦のお膳をかこんで「だれそれはいくつになったな《
「おお来年はもう還暦か《などと、なごやかな
一家団欒
(
いっかだんらん
)
の席は尽きることを知りません。
しかし、それも今は昔の話となったのではないでしょうか。
ことに満年令で歳を数えることが、我われの生活の中にすっかりとけ込んでしまい、自然と元旦の感慨も、かなり違ってきたように思われます。
なるほど「あけまして、おめでとう《という言葉は少しも変わりませんが、それだけにまた、しだいに儀礼的になって、
空疎
(
くうそ
)
なひびきがいたします。
今までのように正月一日がみんなの共同誕生日でなくなったために「おめでとう《の意味合いも多分に
剥落
(
はぎおと
)
したということなのでしょうか。
それはさておき、誕生日を盛大に祝う西洋の習慣、還暦祝いや、
喜寿
(
きじゅ
)
、
米寿
(
べいじゅ
)
などの日本の伝統など、洋の東西を問わず、人々は齢を重ね、長生きすることを、なにものにもまして 喜び祝います。
本人はともかくとしても、周囲の方でワイワイとさわぎたててしまいます。
死は限りなく
厭
(
いと
)
わしく、生は
喩
(
たと
)
えようもなく捨てがたい。
死に対する嫌悪感と、生への
愛着心
(
あいちゃくしん
)
、それはこの世にいのちを恵まれたものの
偽
(
いつわ
)
りなき心情でありましょう。
まして昨今は、医学の長足の進歩と共に、人間の寿命もグンとのびてきました。
健康で長生きするということは、ほんとうに喜びであるに違いありません。
健康であるということがどんなに人間にとって幸せなことであるか、自ら病の床に
呻吟
(
しんぎん
)
してみて、はじめて紊得がいきます。
また「長生きしたおかげで、テレビも観られるし、旅行もできる《と、文明の恩恵に浴する喜びをしみじみと語る長老人の言葉には、長生きしたことへの 深い感謝のおもいが汲みとられます。
確かに、健康で長生きすべきだと思います。
しかし我われは、世に 「
無為徒食
(
むいとしょく
)
《という言葉のあることに思いをいたさねばなりません。
人生に対する定見もなく、為すところもなく、ただ
徒
(
いたず
)
らに馬のごとく食らい、牛のごとく肥え、老いるならば、いくら頑健な体をもって、 長生きしたとしても、空しい一生といわざるを得ません。
そのような人は食べものを
糞
(
くそ
)
にかえる作業をした機械であったというべきでしょうか。
食らった量も多ければ製造された
糞
(
くそ
)
の量も大したものであるはずです。
昔「一日
為
(
な
)
さざれば、一日食わず《と言ったえらい禅僧がおります。
また「朝に道を聞けば、夕に死するも可なり《と
道破
(
どうは
)
した中国の君子もいます。
人生の価値は量ではなく、質の如何できまると申せましょう。
だからお釈迦さまは、心の眼を開け、智慧をみがけ、とおっしゃるのです。
我われの心の眼が開け、智慧がみがかれて、はじめて、健康で長生きすることの意義がでてくると思います。
そのときこそ「あけまして、おめでとう《の言葉も
空疎
(
くうそ
)
にはひびかなくなるでしょう。
※『ひかりの言葉』
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