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法 話
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【 私の如是我聞 】
第117回
生命
(
いのち
)
を尽くしてゆく道
更新
2021年5月
『
如来二種
(
にょらいにしゅ
)
の
回向
(
えこう
)
を ふかく
信
(
しん
)
ずるひとはみな
等正覚
(
とうしょうがく
)
にいたるゆゑ
憶念
(
おくねん
)
の
心
(
しん
)
はたえぬなり』
『
正像末和讃
(
しょうぞうまつわさん
)
』
一般に「お念仏を申して浄土に往生する《という「浄土教《は、浄土に
往
(
ゆ
)
くことが最終駅のように思われているようです。
しかし、この和讃は 「
如来二種
(
にょらいにしゅ
)
の
回向
(
えこう
)
《と述べられています。
すなわち、
往生浄土
(
おうじょうじょうど
)
の相 (
往相
(
おうそう
)
)と
還来穢国
(
げんらいえこく
)
の相 (
還相
(
げんそう
)
)の二種の めぐみ であると言われています。
思えば、浄土に
往
(
ゆ
)
き生まれる目的とは何かをたずねてみれば、それは「仏に成る《ことでなければなりません。
「
本願
(
ほんがん
)
を信じ念仏申さば仏に成る(歎異抄)《といわれるゆえんであります。
では、仏に成るとはどういうことか。仏とは
「
自覚覚他覚行窮満
(
じかくかくたかくぎょうぐうまん
)
《(善導大師)と説かれています。
すなわち、自らめざめ、あらゆるものをめざめさせ、その めざめ の はたらき が窮まり満ち満ちているのが仏であると説き明かしてくだされています。
つまり、
自利利他円満
(
じりりたえんまん
)
、
自利利他
(
じりりた
)
の完成が仏に成るということであります。
ですから、浄土に
往
(
ゆ
)
き生まれて仏に成らせていただくということは、あらゆるものに めざめを よびかけ、それを果たし遂げるために、めざめ なき世界に
還
(
かえ
)
り来たって はたらかせていただく人格になるということであります。
およそ
大乗仏教
(
だいじょうぶっきょう
)
のこころは、 「
衆生
(
しゅじょう
)
病むが故に
菩薩
(
ぼさつ
)
また病む《と言われているように、
衆生
(
しゅじょう
)
が悩むとき
菩薩
(
ぼさつ
)
は悩み、衆生が めざめる時、菩薩も めざめるのであります。
まさに同体の慈悲であり、
同悲同苦
(
どうひどうく
)
のこころであります。
この
大乗菩薩道
(
だいじょうぼさつどう
)
のこころの極点ともいえる世界が、
法蔵菩薩
(
ほうぞうぼさつ
)
の
本願
(
ほんがん
)
・第十八願の
「
若上生者・上取正覚
(
にゃくふしょうじゃ・ふしゅしょうがく
)
《であります。
もし、あらゆる衆生が、浄土と説かれる
真実
(
まこと
)
の世界に
往
(
ゆ
)
き生まれて仏に成らせることができなければ、自ら
阿弥陀仏
(
あみだぶつ
)
と呼ばれる仏には成らないとの誓いであります。
この 「
若上生者
(
にゃくふしょうじゃ
)
《(利他) 「
上取正覚
(
ふしゅしょうがく
)
《(自利《が
円
(
まろ
)
やかに満ちている
誓願
(
せいがん
)
を信じるもののこころは、つねに、自ら仏に成る道は、そのまま
煩
(
わずら
)
い悩みから離れられない世界に たち
還
(
かえ
)
って、あらゆるものの めざめ のために はたらき続けることであります。
それは、つねに み仏の本願を
憶
(
おも
)
い念じ、み仏の本願を
憶
(
おも
)
い念ずる そのままが、浄土に
往
(
ゆ
)
き生まれることは、そのまま
煩悩
(
ぼんのう
)
の林の中でも
還
(
かえ
)
り来たって はたらかせていただけるものであるという思いとなるということであります。
この
往相
(
おうそう
)
と
還相
(
げんそう
)
の めぐみを、いま、私の口から
湧
(
わ
)
きあがる お念仏の ただ中に味わい、完全な自利利他の仏に成る世界を期しつつ、信心の行人として、 その こころで、生命を尽くしてゆく道を ゆかせていただきたいものであります。
※『真宗法語のこころ』 中西 智海
本願寺出版社
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