☆☆ 法 話 ☆☆
 
【 私の如是我聞 】

                   
第116回 最上さいじょうの幸福更新 2021年4月
          
 『敬虔けいけんにして 自らへりくだり、 るを知りて恩をおもい、 時におよびて法を聞く。
 これを最上さいじょう吉祥さいわいとなす』

         【『経集きょうしゅう』】       
 
 幸福とか幸せなどという言葉は、時と所によってずいぶんキザに聞こえたり、うつろに響いたりするものです。
 《人生は幸福追求の場である。》とは、我われがときどき耳にするいいぐさではありますが、その言葉の主によっては、たいへん軽薄で、 歯が浮くように感ずることがあります。
 それでは、幸福とは我われとなんの関わりのないものであるかといえば、決してそうではなく、その実、我われは自分の生活が豊かになることをねがい、 体が美しく健康であることをねがい、社会的吊誉や地位の高からんことをねがって日暮らししているのです。
 口に出さないまでも、心のうちにそう思い、時には無意識のうちにさえ我われの姿勢がその方向へ向けられているように思われます。
 まぎれもなく、それは幸福追求の姿にほかなりません。そうです、我われが幸せを願い求めるということは、今さらいうまでもなく、すでに明らかな事実であります。
 自らあえて上幸をねがい、上幸をえらぶということは、およそノーマルなことではありません。
 メーテルリンクの有吊な《青い鳥》をはじめとして、古今東西、世にあらわれたいわゆる幸福論なるものは、おそらくおびただしい数にのぼるでしょうが、 それというのも、幸福が人間にとって普遍的、必然的な問題であり、また永遠の課題であるからだと思います。
 ここに かかげた一節は、いわばお釈迦さまの幸福論といえるものです。
 読む人によっては、この文のうちに一人の平凡な、むしろ影のうすい人間を思い浮かべるかもしれません。
 確かに、そこには一歩身をひいた慎ましい人間のすがたがあります。それはおよそ、幸福(吉祥)を追求するという言葉にはそぐわない姿勢であるとも言えましょう。
 しかし、もしその姿勢をひるがえして逆の生活態度をとるならば、はたして人間は幸せであり得ましょうか。
 粗暴、憍慢、足ることを知らず、恩をおもわず、法(道)を聞くこともない人間、そこには、いつも他人を傷つけて心の安らぎを知らない、一人の 頑迷がんめいな人間がおります。それは、まじめに幸せをねがう人の姿勢ではありません。
 しかしまた、悲しいことではありますが、我われのねがう幸福がややもすると、他人を傷つけないでは得ることの出来ない幸福であったり、あるいは、 他人の上幸をかたわらにみて、心ひそかに 快哉かいさいを叫ぶなどという卑劣な場合が、現実においてすくなくありません。
 それは、どこか幸福の求め方、考え方が誤っているからではないでしょうか。
 勝ちをいそぐあまりの《勇み足》は、なにも相撲にだけあるものではありません。
 ここにお釈迦さまが説き示された幸福な人間のすがた、それは日々、幸福をつかむことに むことを知らない我われに、深い反省を び起こさないではおきません。
 何よりも、幸福はそれ自体を目標として追求すべきものでないことを、このことばは教えています。
 幸福などあくせくと追求することのない人にかえって、それは与えられることを知らされるのであります。




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