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法 話
☆☆
【 私の如是我聞 】
第114回
第二の
矢
(
や
)
は受けず
更新
2021年2月
『たとえば人の
箭
(
や
)
を
受
(
う
)
くるに、
ただ第一の
箭
(
や
)
を
受
(
う
)
け、
第二の
箭
(
や
)
を
受
(
う
)
けざるがごとし。』
【『
相応部
(
そうおうぶ
)
』】
ある時、お釈迦さまは、弟子たちに向かって次のような話をなさいました。
「
平生
(
へいぜい
)
、あまり私の教えを聞かない世の大方の人びとは、苦を感受し、楽を感受し、 あるいは非苦非楽を感受する。
いっぽう、私の教えをつねによく聴聞する諸君も同じく、また苦を感受し、あるいは非苦非楽を感受する。
もし然らば、諸君、私の教えに従う諸君と、そうでない人たちとの間には、どんな相異点があると思うか《。
この問いに、居並ぶ弟子たちは適確な答えができず、ひたすらお釈迦さまのご教示をあおぎます。
お釈迦さまはさらに言葉を続けて「平生、あまり私の教えを聞かない人びとは、苦を感受して、憂え悲しみ、果てはいよいよ心惑うに至る。
それはあたかも、人が第一の矢を受け、さらに第二の矢を受けるがごとくである。
いっぽう、よく私の教えを聴聞している諸君は、たとえ苦を感受しても、決して憂え悲しむことはない。
まして心惑うことはない。
それはあたかも、人が第一の矢を受けて、第二の矢を受けざるがごとくである。
私の教えをよく聴聞するものと、そうでないものとの相異点は、まさしくそこにある《と。
お釈迦さまの話はおよそ、このようにして進められていきます。
迷える人といい、悟れる人といい、また、仏教者であろうと、なかろうと、ともに生身の体をもった人間であることにおいては、かわりはありません。
たとえ、仏の教えを聞いて、もって生まれた肉眼に加えて浄い法眼(智慧の眼)を恵まれたとしても、やはり柳は緑であり、花は紅であります。
苦楽の感受においても、両者に別異のある道理は、まずありません。
第一の矢は、だれかれの差別なく等しく襲ってまいります。
ただ苦楽の感情に酔い惑って、泥沼につかったように、いよいよ混迷におちいるか、苦楽の感情に引きずりまわされることなく、それらを乗り越えていけるかによって、 仏教者とそうでない人との水際がたてられると、お釈迦さまはおっしゃるのです。
この世にあって常住上変なものは、なに一つありません。
日本の古歌に「いろはにほへど、ちりぬるを、わがよたれぞつねならむ《と歌われています。
苦楽の感受においても、それは例外ではありません。
厭
(
いと
)
うべき
大苦患
(
だいくげん
)
もいつかは、傷口の
癒
(
い
)
えるがごとくなえはてる時がやってきます。
好ましき快楽も落日のごとく、やがては手のとどかぬ所へ消え去ってしまいます。
この無常の道理、無住のありていにはやく目覚めて、なんとか我われの心を苦楽の かせ から解き放つことはできないものでしょうか。
我われが「第二の矢は受けず《といえるのは、その時でありましょう。
※『ひかりの言葉』
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