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法 話
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【 私の如是我聞 】
第108回
おのれを悪に
結
(
むす
)
ぶことなかれ
更新
2020年8月
『おのれを
愛
(
あい
)
すべきものと知らば
おのれを悪に
結
(
むす
)
ぶことなかれ
悪
(
あ
)
しき
業
(
ごう
)
をなす人びとには
安楽
(
あんらく
)
は えがたきものなればなり』
【『
相応部
(
そうおうぶ
)
』】
人のおもいは いずこへも ゆくことができます。
けれども、どこへ ゆこうとも、人は自分より愛しいものを見出すことはできません。
それでは、私たちは ほんとうに自分を愛すべきものとして 扱っているでしょうか。
人を愛することは
難
(
むずか
)
しいと いいます。
しかし、自分を正しく愛することも また難しいのではないでしょうか。
私は、よく手紙などに書く 「ご自愛を念ず《という文句を興味深く思うのです。
自分を大事にするというのは、このばあい、保身の術を講ずる ということではありません。
自分に対して ほんとうに正しい態度をとるということです。
私たちは どうかすると、わが身の可愛さに とらわれて、かえって自分のために ならないことをしています。
それは、自分を ほんとうに愛すべきものと知らない ということでしょう。
ソクラテスは、人が悪いことをするのは、それが悪いと知らないからだ、人は すすんで悪を なすものではない、といいました。
そのままでは受け取りにくい言葉ですが、 それは こんな意味です。
例えば、盗みの
罪
(
つみ
)
を犯しても 自分の欲望を満足する方がよいと判断したからだ というわけです。
つまり、盗みということによって、私自身が どれほど そこなわれるか知らないからだというのです。
これは一面の真理を いいあてています。
人は
真
(
しん
)
に自分を愛することを知らないで、自分を悪に結びつけています。
そして、「これぐらいのことは《と たかをくくっています。
これを「
邪見驕慢
(
じゃけんきょうまん
)
《と いうのです。
そのときは うまいことをしたように思っていても、そういう人には決して ほんとうの
安定
(
あんてい
)
はありません。
人間は善においてしか 落ち着くことのできないように できているのです。
※『ひかりの言葉』
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