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法 話
☆☆
【 私の如是我聞 】
第107回
煩悩
(
ぼんのう
)
を転じて
菩提
(
ぼだい
)
に
更新
2020年7月
『
本願力
(
ほんがんりき
)
にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳
(
くどく
)
の
宝海
(
ほうかい
)
みちみちて
煩悩
(
ぼんのう
)
の
濁水
(
じょくすい
)
へだてなし』
【『
高僧和讃
(
こうそうわさん
)
』】
私たちの人生において、「生きていてよかった《と うなずくことのできる世界に めぐまれることは すばらしいことだと言わねばなりません。
それに対して、何のために この世に生まれてきたのか、なぜ、このような矛盾の人生を生きねばならないのか、 何が生きがいであり、生きる意味なのかが わからないままの生活は、何と空しいことでありましょうか。
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
は、ずばり 「
本願力
(
ほんがんりき
)
に あひぬれば むなしく すぐるひとぞなき《という
和讃
(
わさん
)
を作られました。
「あう《は、一般的には めぐりあい であるということでありましょうが、この場合は 「
遇
(
あ
)
う《ということであり、特に「偉大なるものとの めぐりあい《ともいわれる深い こころがあると言われています。
親鸞聖人は 「
遇
(
あ
)
う《とは「信ずる《ことであり、
「
信知
(
しんち
)
する《ことであると うけとめられておられます。
そして、 「
遇
(
あ
)
う《には、驚きの こころがあります。
もし、 「
如来
(
にょらい
)
の
本願力
(
ほんがんりき
)
《と説かれる すくいの まことに遇うことがなかったら、自分は どうなっていたであろうか。
この悩み多き人生に、悩みの根も知ることの できない私を根底から照らし出してくだされて、しかも、
摂
(
おさ
)
めとって
捨
(
す
)
てたまわぬ
阿弥陀如来
(
あみだにょらい
)
の
本願力
(
ほんがんりき
)
の まことがあればこそ、この人生が自分の人生として たしかな意味づけを することができるのであります。
特に、ここでは
本願力
(
ほんがんりき
)
と うたわれていることも、深く味わうべきであります。
すなわち、
本願
(
ほんがん
)
は単なる希望といったものではないということであります。
それは願いの通り、
煩
(
わずら
)
い悩むものを 必ず すくうことのできる力となるものであります。
親鸞聖人は、この
本願力
(
ほんがんりき
)
の いわれを
曇鸞大師
(
どんらんだいし
)
の 『
往生論註
(
おうじょうろんちゅう
)
』に根拠を もたれて、ていねいに説き明かしてくだされたのであります。
この
誓
(
ちか
)
いの み吊こそ、
功徳
(
くどく
)
の
宝海
(
ほうかい
)
であり、
真実功徳相
(
しんじつくどくそう
)
の展開であります。
その はたらきは、いつでも、どこでも、だれにでも、はたらき通しであります。
すなわち、過去、現在、未来の
三世
(
さんぜ
)
を貫き 東・西・南・北・四維・上・下を くまなく照らし 育ててくだされるのであります。
ですから、 「
煩悩
(
ぼんのう
)
の
濁水
(
じょくすい
)
《すなわち、
煩
(
わずら
)
い悩みが底知れず うずまくのでありますが、 「
功徳
(
くどく
)
の
宝海
(
ほうかい
)
みちみちて《と如来は「かねて知ろしめして《必ず
煩悩
(
ぼんのう
)
を転じて
菩提
(
ぼだい
)
と成らしめてくださるのであると、告げられているのであります。
まことに
煩
(
わずら
)
い悩む そのものである、この
私
(
わたし
)
の すくいと生きがいは 「
本願力
(
ほんがんりき
)
に
遇
(
あ
)
《わせていただくことであります。
※『真宗法語のこころ』 中西 智海
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