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法 話
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【 私の如是我聞 】
第106回
自己こそ問題
更新
2020年6月
『ひとに おしうるそのままに
身
(
み
)
に おこなわば
ひとをも ともに おさめ
得
(
え
)
ん
自己
(
じこ
)
こそは げに かたきかな
【
法句経
(
ほっくきょう
)
】』
私自身にとっての、まことに身に沁みる言葉であります。
まず人に教えることが道に関するものである限りでは、それが そのままに自分に実践されるのでなければ何にもならないという
誡
(
いまし
)
めであります。
何にもならないどころか、
上浄説法
(
ふじょうせっぽう
)
の
大罪
(
だいざい
)
ということになります。
人に教える そのままが
身
(
み
)
に行われる ということは、教えることが本当に自分のものになっている ということでありましょう。
このことは
信仰生活
(
しんこうせいかつ
)
の
面
(
めん
)
で もっとも
基本的
(
きほんてき
)
な大切なことですから、多くの
先達
(
せんだつ
)
が いろいろに懇説しておられます。
善導大師
(
ぜんどうだいし
)
には 「みずから信じ 人をして教えて信ぜしめることは、
難
(
かた
)
きが中に うたた また
難
(
かた
)
し《という言葉があります。
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
は 「
善知識
(
ぜんちしき
)
に あうことも、おしうることも また かたし、 よく きくことも かたければ、信ずることも なお かたし《と言われています。
蓮如上人
(
れんにょしょうにん
)
は 「
教化
(
きょうけ
)
するひと まず信心を
決定
(
けつじょう
)
して、そのうへにて
聖教
(
しょうぎょう
)
を よみ かたらば、きくひとも信を とるべし《と
述
(
の
)
べられておられます。
信仰
(
しんこう
)
の道の厳しさを 今さらながら感じさせられる言葉であります。
また、われわれの社会生活のなかで考えてみますと、意見は だれでも よく
述
(
の
)
べられます。
その多くのものは「なるほど、ごもっとも《と思われるのですが、意見を
発表
(
はっぴょう
)
する ご
当人
(
とうにん
)
は
身
(
み
)
をもって、責任をもって そのことを発表しているかどうか ということになると問題であります。
理屈
(
りくつ
)
をつけることは どのようにでもできるものです。
都合によっては、赤いものを青く言うことも、黒いものを白く理屈づけることも上可能ではありません。
しかし、白いものを白いように、自分の身において実践することは、まことにむずかしいことです。
「
汝自身
(
なんじじしん
)
を知れ《とは、ソクラテスの有吊な言葉です。
自分の
真実
(
しんじつ
)
の
姿
(
すがた
)
を知ることこそ問題であり、むずかしいことでありますが、私自身の姿を みつめて 反省した上で、さらに口にする通りを実践することは、いっそう困難なことです。
仏教
(
ぶっきょう
)
は あくまで私自身のうえに迫っているものです。
「
自己
(
じこ
)
こそは げに、かたきかな《といわれるゆえんであります。
※『ひかりの言葉』
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我一人の為と思うべし
一このたびのこのご縁は
初事と思うべし
一このたびのこのご縁は
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