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法 話
☆☆
【 私の如是我聞 】
第102回
人を大切にすること
更新
2020年2月
『
母
(
はは
)
なる人に また
父
(
ちち
)
なる人に
兄弟姉妹
(
きょうだいしまい
)
に また妻の
父母
(
ふぼ
)
に
手もて害を加え 言葉もて悩ます者
かかる者はいやしき人と知るがよい。』
【「経 集《】
私たちは、「いやしい人《と言えば、普通では「食いしん坊《という意味につかっております。
この聖典にでております「いやしい人《とは、やはり、「人格の劣る人《という意味でしょう。
というのは、
釈尊
(
しゃくそん
)
は身分や財力で人を差別するようなことは、いっさい
否定
(
ひてい
)
された方だからです。
さて、その「いやしい人《とは、自分の父母兄弟姉妹、妻の父母などに対して、手で害を加えたり、言葉で悩ます者のことだと言われています。
このごろ新聞を読んでおりますと、父母や兄弟を殺したり傷つけたりという記事がよく目にとまります。
なんとひどいことをするものだ、下劣な人だ、と思うのは私だけではありません。
しかし、この釈尊の言葉を聞いて私自身のことを反省してみますと、私もやはり「言葉もて悩ます者《には当たっております。
言葉でもって周囲の人たちを悲しませたり、悪口を投げかけて中傷したとしても、まあ実際に害を加えるわけではないから、 軽い罪にすぎないと考えがちであります。
しかし、釈尊は「言葉もて悩ます者《「手をもて害を加える者《と同列に並べて、これを一様に劣るものだと言っておられるのです。
手で加えた傷は時間がたてば
癒
(
い
)
えますが、言葉によって心に焼きつけられた痛手はいつまでも消えることなく残るものです。
また、一見
残虐
(
ざんぎゃく
)
な
傷跡
(
きずあと
)
を
留
(
とど
)
めないだけに、私たちがしばしば上用意に
犯
(
おか
)
している
罪
(
つみ
)
であることを、釈尊は
誡
(
いまし
)
められているのです。
また、他人をけなし落とす ことばは、自分の心に
高慢
(
こうまん
)
の情を起こし、結局は自分自身をも害することになるものです。
親
(
した
)
しかるべきものに対してさえ この通りです。
ましてや私たちは、社会の人たちとの交渉の中では、軽い気持ちで この罪を犯しています。
なかには、
煽動
(
せんどう
)
や中傷を仕事のようにしている人もあるほどです。
そして私たちは、それらの人をさして「いやしい人《だと思うよりは、「やり手《だと思いがちな場合の方が多いのではないでしょうか。
同じ経典には こんな言葉も書かれています。
おのれを高く ほめそやし
他人を ひくく
貶
(
けな
)
しおとし
高慢
(
こうまん
)
のために心いやしくなりたる者
かかる者はいやしき人と
知
(
し
)
るがよい
言葉とは まことに恐ろしいものです。釈尊が さとりに至るための八つの正しい行いの中に 「
正語
(
しょうご
)
《を入れられたのも、これがためでしょう。
言葉を大切にすること、そのことが私たちの心に
安
(
やす
)
らぎをもたらし、ひいては身辺の親しい人、さらに社会へと平和を
及
(
およ
)
ぼす第一歩だ、という
訓戒
(
くんかい
)
が この言葉であると思います。
※『ひかりの言葉』
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