法輝山ほうきざん 扁額へんがく鐘楼しょうろう梵鐘ぼんしょう

法輝山(扁額)の話

 光西寺本堂の正面廊下に立って、正面に向いて上を見上げると、扁額へんがくがある。

その額には、

   法輝山
  明治四十四年十一月
  文学博士 前田慧雲書

とある。
 光西寺の現在の本堂は、明治めいじ42年に、西福寺さいふくじ(今の 中区中島)の建物をもち帰って、建てられたもので、明治43年4月17日に竣工しゅんこうしていますが 、がくには、明治44年11月と書かれていることから、本堂の完成を祝って、山号さんごうである「法輝山ほうきざん」の扁額へんがくがかけられたようです。
 「法輝山ほうきざん」は、がくにもあるように、前田慧雲まえだえうんという方が書かれています。 前田慧雲は、明治・大正期の仏教学者ぶっきょうがくしゃで、安政あんせい4年(1857年)三重県桑名に生まれ、 西本願寺西山学校にしほんがんじにしやまがっこうで学び、三井寺みいでら大宝律師だいほうりっしから 古典的な仏教学を、修得しゅうとくされました。
 明治24年浄土真宗本願寺派大谷光瑞じょうどしんしゅうほんがんじはおおたにこうずい学問所主事がくもんしょしゅじとなられました。 明治36年(1903年)『大乗仏教史論だいじょうぶっきょうしろん』により文学博士の学位を受けられました。また、明治37年に勧学かんがくとなられました。
 高輪仏教大・東洋大・龍谷大たかなわぶっきょうだい とうようだい りゅうこくだいの学長を歴任。伝統的な仏教学を近代に生かした学風で知られた方で、 書画しょがの、方面も堪能たんのうで「止舟」又は「含潤道人」とごうして、作品を残されました。
 昭和5年(1930年)74歳で、亡くなられましたが、生前せいぜんには、編集長として「大日本続蔵経だいにほんぞくぞうきょう」の発行に尽力されるなど、著書を残されています。

 著書には、「本願寺派学事史ほんがんじはがくじし」「大乗仏教史論だいじょうぶっきょうしろん」「天台宗綱要てんだいしゅうこうよう」などがあります。




本堂の扁額「法輝山」

(山号は、寺院に付ける称号)




鐘楼梵鐘の話

 山門の石段(石段の上に山門さんもんがあり、そばに 鐘楼しょうろうがある)脇の上に、鐘楼しょうろうがあって、 梵鐘ぼんしょうがある。
梵鐘ぼんしょうは、戦時中戦略物資として軍に供出され、 鐘楼しょうろうは原爆の爆風でいたんでいたものを、昭和42年 門徒もんと 田中隆平氏と 御一族の寄進きしんにより、現在の姿に修復しゅうふくされた。
梵鐘ぼんしょうは、田中隆平氏の経営する、大和重工(株)に於いて、鋳匠いしょう 河迫吉衛氏が制作せいさくした。
傷んでいた鐘楼しょうろうは、田中家分家の、田中一郎・田中次郎両氏を施主として、修復しゅうふくされた。
梵鐘ぼんしょうには、以下の文字が鋳込いこまれている。 




















 施








 施




法輝山



西



常住





































鋳匠
 河





衛之作








株式会社
昭和四十二年十月


本堂廊下から、鐘楼と山門 鐘楼と梵鐘


梵鐘に鋳込まれた「四句」には、大切な意味があります。
諸行無常しょぎょうむじょう 是生滅法ぜしょうめっほう  生滅滅己しょうめつめっち 寂滅為楽じゃくめついらく
諸行しょぎょう無常むじょうなり  生滅しょうめつほう  しょうめつめつおわって  寂滅じゃくめつ楽しみたのしみと為す)

この四句が歌われたのは・・・・
 昔、ヒマラヤ山に真実を求める行者がいました。神はこの行者の行いに感動し、その心の まことを試そうと鬼の姿となってヒマラヤ山に現れ、鬼は歌いました。その歌の意味は、・・・
「ものみなうつり変わり、現れては滅びる。
 生滅にとらわれることなくなりて、静けさと安らぎは生まれる。」
行者は、自分の身を与えることを約束して、歌を聞き、歌を木や石に彫りました。
であります。



昭和42年、原爆の爆風で傷んでいた鐘楼・山門の修復と、境内整備の工事を請け負われた 有限会社 山下建設 代表 山下正次郎氏に、修復工事の完了を以て、感謝状が贈呈されています。
    感  謝  状
    ・・・・・  
    昭和四十二年十一月二十六日
      法輝山 光西寺
      住 職 長上 昭雅
      総代長 土井 卯一


また、本堂の軒下のきしたには、喚鐘かんしょう釣鐘つりがね)がある。
鋳込いこまれている文字は、以下のとおりです。

セキヨ 施主



権太郎




 廿五回忌記念

幾七


昭和廿七年一月五日





西


鐘楼の梵鐘がない時から、今日もその音は、響きます。


トップページへ