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2025年4月
第162話
朝事*
住職の法話
「
浄土
じょうど
からの光の中を」
住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
今月は「
浄土
じょうど
からの光の中を」という題にしました。
坂村真民さんの詩に、「鳥は飛ばねばならぬ」という詩があります。
『鳥は飛ばねばならぬ
鳥は飛ばねばならぬ
人は生きねばならぬ
怒涛の海を
飛びゆく鳥のように
混沌の世を
生きねばならぬ
鳥は本能的に
暗黒を突破すれば
光明の島に着くことを知っている
そのように人も
一寸先は闇ではなく
光であることを知らねばならぬ
新しい年を迎えた日の朝
わたしの与えられた命題
鳥は飛ばねばならぬ
人は生きねばならぬ』
ここに「一寸先は闇でなく 光であることを知らねばならぬ」と書いてあります。
「一寸先は闇」という言葉はよく聞くし、よくわかります。
しかし、「一寸先は闇でなく 光であることを知らねばならぬ」とあります。
大変驚きました。
確かに、そうだよなあー。いつもマイナス思考で、否定的な、悲観的な、ネガティブな気持ちで生きていて、何にもプラスにならないのでした。
私はお念仏の教えを頂いているじゃないか!浄土からの光を届けられている身ではないか!
どうしようもない煩悩具足の凡夫だと見つめつつ、現実の生活は、浄土からの光であるお念仏を頂き、 「一寸先は光」という気持ちで、人生を明るい方向に日々歩んでいきたいものだと思いました。
『すべては光る
光る 光る すべては光る
光らないものは
ひとつとしてない
みずから光らないものは
他から 光をうけて光る』
これは、坂村真民さんの「すべては光る」という詩です。
なんて素晴らしい詩だと思いませんか!
自分の力で 光ることが出来なくても 阿弥陀さまの光を受けて、みんな輝くことが出来るのですね。
浄土からの光を受けて 輝くことができるのです。
それがお念仏の人の姿です。
今日一日、お念仏に照らされて、光り輝く一日でありたいものです。
親鸞聖人は「教行信証」の「総序の文」で次のように言われています。
『ああ、このような力強いご本願は、
生生世世にも会い難く、真実の信心は永劫にも得難いものである。
いま幸いに、この行信を得たことは、遠く過去以来の深い仏のお育てがあったからだとよろこばずにはおられない。
もしまた、このたび疑いに閉ざされて、本願のみ法をいただかずに終わったならば、また元のように、 とこしえに迷いを続けねばならないであろう。
まことなることよ、おさめ取って捨てないという真実の仰せ、世にこえてまれにすぐれたこのみ法を聞くものは、 よくそのおこころをいただいて、いささかもはからいためらってはならない。』
(『浄土真宗 門信徒ノート 山本仏骨編』本願寺 より)
親鸞聖人は、ご本願に出会えた感動を書かれています。
私たち、一人一人にも、同じように、ご本願が届けられています。
それは、浄土からの光を全身に浴びていることではないでしょうか?
しかし、仏様の光は、私の煩悩具足の姿も照らし出す光でもあります。
ある先徳は、次のように言われていました。
『
芦
あし
の湖から富士を望み見ると、何とも言えぬ姿である。
あたみの海岸の小石一つがなつかしい、天地の生命が、この小石の一つに
収
おさ
まって居る。
小石よ!私はお前と仲よしだ、親類だ。
尊い小石だ、なつかしい小石だ、なつかしい小石だ。これをかえるみる人は一人もない不思議な事だ。
それよりも、もっと不思議な事は、自分の心の小石だ。尊いとも、尊いとも、三千世界の富よりも尊い。
無尽蔵の宝をそのうちに収めて居る「心」を見るものもなく、かえりみるものもない。
おしい事だ。えんを追うて昇沈し、鬼にもなるし、仏にもなれるのだが。
悪く言えば大風に灰をまいたような此の心。宇宙人生、森羅万象と一つであって、
一顆
いっか
の
明珠
めいしゅ
である此の心。心を大切にせよ。心の化粧が徳だ。善い心、善い行(おこない)だ。
つとめて化粧を
施
ほどこ
して、月にだに素顔を見せまいぞ。
ほんとうの心を
古鏡
こきょう
にうつした上に、それから化粧をするとよいのだが、自分のすがたも見ず、知らずで、化粧ばかりするのは、水に
画
えが
き、空に筆を
染
そ
めるようなもの、風船玉に化粧するのは、おかしいではないか。
大風に灰をまいたような此の心、わが心。これで安心だ。自己だ、自分だとひっつかまえたら、化け物をつかまえて居るのだ。
立ちのぼる富士のけむりのそらに消えて
行くえも知らぬわがおもひかな (西行)
この世は執着するなと言っても、執着せずに居れないのが凡夫である。仏法をよく聞くと執着しながら執着しないと言った、おもしろい世界が開けて来るものだ。
人間というものは、あさましいもので、何でも「自分のものだ」と言った、所有観念があるものだ。
自分のものとては、何一つないではないか。身も心も、自分のもので自分のものではない。』
「自分の真実の姿をよく知った上で、心に化粧をしろ。」と言われています。
「浄土真宗の教章」の「生活」のところに次のように説かれています。
『親鸞聖人の教えにみちびかれて、阿弥陀如来のみ心を聞き、念仏を称えつつ、つねにわが身をふりかえり、慚愧と歓喜のうちに、現世祈祷などにたよることなく、御恩報謝の生活を送る。』
今の時代は色々な情報を自由に得ることが可能になりました。
その情報の中には、生きていく上で、役に立ち、大変参考になる、教えられる情報もあります。
素晴らしい助言で、大変役に立ちますし、それらの情報に対して、感謝しますが、完全に行い切ることは中々難しいことが分かってまいります。
そんな愚かな私を、浄土からの働きで、常に照らし、常に
摂取
せっしゅ
し、愚かな私の姿を知らせつつ、決して見捨てないと働き続けて下さる、絶対の力。
それが、「浄土からの光の中を 生かされ、歩ませて下さる力」でありました。
私の働きではなくて、浄土からの働きが元なのですね。
日々の暮らしの中では、誰しも、色々な出来事にぶつかり、否定的な、悲観的な気持ちを持ってしまいがちですが、そんなネガティブな姿勢では、 人生明るく開けるわけもなく、自分から発したものは自分に返ってくる如く、暗い人生になってしまいますよね。
他人の言動を一々気にする背景には、自分のプライドというものが、大いに関係していることに気づきました。
結局は自分の自我が強いから、相手の言動に、一々腹が立つわけなんですよね。
「私に対して、その態度は一体何なんだ!」と相手のことを許せなくなってくるわけなんですよね。
つまり、「私に対して、あの態度は何なのか!」というわけですよね。
そんなプライドというものは、何の価値もないものなのでしょうね。
そんなことも気づかないで、今まで、生きてきました。
恥ずかしい事です。情けないです。
私が20代で、初めて法事に参った家がありました。
その親戚に、もうお亡くなりになられましたが、在家から得度され僧侶になっておられた方がおられ、色々と教えて下さったことを懐かしく思い出します。
色々なことを助言して教えて下さいました。
その中の一つに、「住職さん、色々な人が色々なことを、あなたに言われるだろう。しかし、あなたのことを、全て、知って、真に分かって言っているのではないんですよ。」と言われました。
確かに、その通りですよね。私自身も、他人に心ない言葉を浴びせて、苦しめることも多々あると思いますが、その人のことを全て、知って、真に分かって言っているのではないのですよね。
凡夫は凡夫なりに他人のことを見て責め裁き、評価しているだけですよね。
その裁きが極端に強くなったのが「地獄」の世界なんだそうですね。
「火の車 作る大工は なけれどもども 己が造りて 己が乗りゆく」
ということを云いますが、自分が造っている火の車に自分が乗っているだけなのですね。
自分の人生は結局は自分自身が作り上げていることを忘れないようにしたいものです。
他人の言動に一々反応することは大変愚かなことであり、無意味で無駄なことだと教えられます。
その人はその人の人生を生きているだけであるのですよね。
私は私の人生を、今日一日 明るく精いっぱい、上向いて歩んでいきたい。
「一寸先は闇」という戒めも大切でしょうが、「一寸先は光」という坂村真民さんの言葉を力にしたいものです。
坂村真民さんは、もう亡くなられましたが、仏教詩人です。どうして私は、坂村真民さんのことを知ったのか?
紀野一義氏の著書で、坂村真民さんのことを素晴らしい文章で書いてあったのを読んだ、ということも大きなきっかけだったと思います。
実は、それ以前にも、坂村真民さんとのご縁があったのですね。
それは、私の亡き父が、どういうわけか「坂村真民詩集」を持っていたからなのですね。
これには、正直、大変驚きましたね。
というのも、父は、機械をいじったり、アマチュア無線を一生懸命にやっていたり、技術的な面が優れていた人で、文学的なものをあまり感じたことはなかった人だからですね。
それがどういうわけか、「坂村真民詩集」を持っていたのですね。
私は、古本屋へ行くのが趣味みたいなものですが、坂村真民さんの詩集を見つけると買うようにしてきました。
すると必ず、坂村真民さんの自筆の言葉やサインが書いてあるのでした。何かしら、坂村真民さんとのご縁を感じてきた次第です。
私の尊敬する紀野一義氏も、坂村真民さんのことを大変尊敬しておられることもあって、私も坂村真民さんの詩を読むようになりました。
詩というものは、色々と説明するのではなく、短い言葉で、本質的なことをズバッと表現するところがありますね。
そういうところに詩の世界の深さと言うものが感じられますね。
ある学校の教師を長年しておられた方に、坂村真民さんの詩集を差し上げたら、「坂村真民さんは本物だね。」という感想が返ってきたことを思い出します。
小池邦夫と言う方は、
「もうダメかと 投げかけていた
真民詩を読むと また
立ち上がろうと思う」
又、
「真民さんの手紙は
人生を生き返らせる
心にしみる言葉が
注がれる」
と言われています。
南無阿弥陀仏
『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』
☆☆法語☆☆
*坂村真民さんの詩
*声
しっかりしろ しっかりしろ と
鳥が鳴く
しっかりするんだ
しっかりするんだ と
風が言う
しっかりしなさい
しっかりしなさい と
タンポポたちが言う
そうだ そうだ
まったくそうだと
空ゆく雲が言う
*しんみん五訓
クヨクヨするな
フラフラするな
グラグラするな
ボヤボヤするな
ペコペコするな 真民
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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