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2026年3月
第173話
朝事*
住職の法話
「仏は私に
付き詰め
つきづめ
護り詰め」
住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
今月は「仏は私に
付き詰め
つきづめ
護り詰め」という題にしました。
「付き詰め」とは、「仏様は、常に私に付いておられる。一人ではない!」という味わいであります。
「護り詰め」とは、文字通り、私を常に護っていて下さるという味わいで、調子のいい時だけでなく、 どん底の苦しい時も、仏様は、護り通しという味わいであります。
如来は悩みのあるところに働き通しであります。悩みがあるところに必ず仏は働き通しであります。
苦悩の上に向かって働き通しなのが、如来の本願であり、仏の働きであります。
私の悩みのどん底に向かって、仏は働き通しであると味わわせて頂かなければならないのであります。
如来は私の上に働き通しであります。
「私を離れた如来なし 如来を離れた私なし 摂取光中 弥陀のふところ 住まい」であります。
「衆生病むがゆえに 菩薩また病む」 同体 一体であります。
「生も死も 仏と共に旅の空」 「生きても死んでも 摂取不捨」であります。
人生何事もない時に、「仏さまと共にある」と味わうことは簡単ですが 辛い時、苦しい時に 「仏さまと共にある」と味わうことは難しいことですね。
「死の関所 何と思うてござるやら」
「浄土真宗の教章」の中にある「教義」には
『教義 阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化する。』 とあります。
よくよく味わってみれば、色々な念仏者の先生方、先輩方を通して、お育て頂いたこと、今もお育ての只中であります。
すでに浄土に往生された念仏者の先輩方が、「迷いの世に還って私を教化されている」ということであります。
「浄土真宗の教章」について、当時の御門主であります、大谷光真氏は 次のように説明されています。
『この「教章」は、わが宗門に集う方々に、ぜひ心得ていただきたい浄土真宗の要旨であるとともに、 新たにご縁のできた方に、み教えを理解していただくための手引きでもあります。
私たちは、近く宗祖親鸞聖人の750回大遠忌をお迎えいたしますが、この大遠忌を機縁に、先人の 方々が身をもって伝えてくださった親鸞聖人のおこころを深く受けとめ、浄土真宗のみ教えを混迷の時代を導く灯火として高く掲げ、人々に広く伝えながら、ともに世の安穏をめざして歩みたいと思います。
この「教章」を身近に備え、折りにふれて参照し、浄土真宗に親しんでくださるよう期待いたします。
2008(平成20)年4月15日 』 門 主 大 谷 光 真
浄土真宗の教章 (私の歩む道)
宗 名【しゅうめい】 浄土真宗
宗 祖【しゅうそ】 親鸞聖人
(ご開山)ご誕生 1173年5月21日
(承安3年4月1日)
ご往生 1263年1月16日
(弘長2年11月28日)
宗 派 浄土真宗本願寺派
本 山 龍谷山 本願寺(西本願寺)
本 尊 阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)
聖 典 ・釈迦如来が説とかれた「浄土三部経」
『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』
『仏説阿弥陀経』
・宗祖【しゅうそ】親鸞聖人が著述された主おもな聖教【しょうぎょう】
『正信念仏偈』(『教行信証』行巻末偈文【げもん】)
『浄土和讚』『高僧和讚』『正像末和讚』
・中興の祖【ちゅうこうのそ】 蓮如上人のお手紙
『御文章』
教義 阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化する。
生活 親鸞聖人の教えにみちびかれて、阿弥陀如来のみ心を聞き、念仏を称えつつ、つねにわが身 をふりかえり、慚愧と歓喜のうちに、現世祈祷などにたよることなく、御恩報謝の生活を送る。
宗門 この宗門は、親鸞聖人の教えを仰ぎ、念仏を申す人々の集う同朋教団であり、人々に阿弥陀 如来の智慧と慈悲を伝える教団である。それによって、自他ともに心豊かにいきることのできる社会の実現に貢献する。
☆この「浄土真宗の教章」ご縁として、念仏者の先輩方が、身をもって伝えてくださった親鸞聖人のおこころを 私自身の上に、深く受けとめ、浄土真宗のみ教えを「混迷の時代を導く灯火(ともしび)」と味わい、人々に広く伝えながら、共に世の安穏をめざして歩みたいものです。
「教章」の「教」とは、「教法、浄土真宗のみ教え」のことです。
「章」とは「文章」というように「あきらかにする」という意味があり、又「旗章」という言葉もあるように、「旗印」という意味もあります。
ここに、「私の歩む道」とあります。
「宗教」は人の究極的な問題を、その根本を解決する大変重要なものです。
自分自身の生き方に即したものであることを、「私の歩む道」という言葉でお示して下さったと受けとめています。
ある仏教の先生は「宗教とは、人間生活の究極的な意味をあきらかにし、人間の問題の究極的な解決にかかわる文化現象である。」と味わわれました。
「究極的」という言葉に、大変深いものを感じさせられます。
「大無量寿経」の中で、四十八願を起こされるときに「もろもろの生死勤苦の元を抜く」という言葉がありますが、人間存在の根本的な苦というものを抜く為に 阿弥陀さまは四十八願を誓われたというのですね。
釈尊が阿難に仰せになった。
「法蔵菩薩は、このように述べおわってから、世自在王仏に、この通りです。世尊、わたしはこの上ないさとりを求める心を起しました。
どうぞ、わたしのためにひろく教えをお説き下さい。わたしはそれにしたがって修行し、仏がたの国のすぐれたところを選び取り、この上なくうるわしい国土を清らかにととのえたいのです。
どうぞわたしに、この世で速やかにさとりを開かせ、人々の迷いと苦しみのもとを除かせて下さいと申しあげた」
そのとき法蔵菩薩は、世自在王仏の教えを聞き、それらの清らかな国土のようすを詳しく拝見して、ここに、この上なくすぐれた願を起したのである。
その心はきわめて静かであり、その志は少しのとらわれもなく、すべての世界の中でこれに及ぶものがなかった。
そして五劫の長い間、思いをめぐらして、浄土をうるわしくととのえるための清らかな行を選び取ったのである」
と現代語訳にあります。
「五劫思惟され」「兆載永劫の御苦労をされ」たのですね。私を何とか目覚めさせたいという親心ですよね!
「究極的」「根源的な解決」という言葉から、人間の苦悩が如何に大きいものか!深いものか!
ちょっとやそっとで解決するような生やさしいものではない、ということを感じさせられます。
「本尊」「阿弥陀如来」は、阿弥陀さまです。木像や絵像としてのご本尊です。
「南無阿弥陀仏」は、名号本尊としての六字名号で、どちらも正式な「本尊」です。
名号「南無阿弥陀仏」が本尊であるというのは、「音声法」【おんじょうほう】という言葉がありますが、「声の仏」【南無阿弥陀仏の名号】となって、 「いつでも」「どこでも」「だれでも」声の仏となって、「あなたを必ず仏にせずにはおかないんだよ」と呼び通しに呼んで下さっています。
これが、浄土真宗の大きな特徴であります。
「声【南無阿弥陀仏】に姿はなけれども 声のまんまが 仏なり、仏は声のお六字と 姿をかえて 我に来る」と先徳は味わわれておられます。
阿弥陀如来の木像も絵像も、「南無阿弥陀仏」もまったく同等です。
本願成就文に「聞其名号」とあるように、私たちが、直接出遇っている如来さまは、「南無阿弥陀仏」の名号だからです。
念仏者の先輩方は、そこには私たちの信心としての帰命の「南無」まで用意して下さって、私のもとに来てくださる如来さまであると、教えて下さいました。
だから、「南無」まで含めて本尊とするのであり、私たちの出会っている如来さまは、「南無」まで用意して下さった「南無阿弥陀仏」なのです。
『歎異抄』第十二条に、本願を信じ念仏を申さば仏に成る。とあります。
「阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み」「この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり」「迷いの世に還って人々を教化する」
還相回向【げんそうえこう】本願力によって、信心をめぐまれ、浄土に生まれられた方が、仏さまとなり、迷いの世に灯を見失ってさまよっている私を救う働きが、ここに表されていると思われます。
幼い、三歳にも満たない幼児が亡くなったとします。お寺参りをしたこともなければ、一声の念仏も称えたこともない、そういう子でも、 遺されたものが、「私が手を合わす身になれたのは、あの子のおかげ」と味わい、気づいたときには、その子は還相の菩薩【げんそうのぼさつ】だったと味わえる世界があると教えらたことがありました。
私たちの浄土真宗では、「教えを聞くこと」「聴聞」が大切だと、ご教示くださっています。
浄土真宗は、「他力の信心を恵まれるみ教え」と言われるように、。自分で考える信心や、自分で作る信心ではありません。
もし、自分で作ったものなら、迷いでしかないでしょう。「他力によって恵まれる信心」だからこそ、仏に成る因になるのです。
「聞くに始まって 聞くに終わるのが 浄土真宗」であると言われています。
「阿弥陀さまが呼んで下さったら、必ず「ありがとう」となる。「ありがとう」となってこそ阿弥陀さまの呼び声であると先徳は教えて下さいました。
「浄土真宗は聴聞にきわまる」のが真宗の特色です。
よく「浄土真宗には何の修行もないんですね。」と言われる方がありますが、「仏法聴聞が浄土真宗のいのちである」と先輩方は教えて下さいました。
ただひたすら、如来さまの呼び声を聞き、如来さまの名のり「南無阿弥陀仏」のいわれを素直に聞くほかないのです。
この阿弥陀如来のみ心、阿弥陀如来の願いを聞かせて頂く時、そこから「つねにわが身をふりかえり」、つまり、如来さまの智慧の光に照らされることによって、私 のあるがままの姿、自己中心で深い闇をかかえた、恥ずべき身であることの気付きと共に、そのような私の為に、常に働き続ける本願のお誓いの中にあったと気付く喜びが恵まれる。
自己内省と、救いの喜びとに恵まれながら生かされていきます。、
「阿弥陀さまは、このまま救われるのだから、何をしてもいいのだ。」と思われる人もあるかも知れません。
しかし「恩徳讃」に「如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨をくだきても 謝すべし」とありますように、み教えに出会えた喜びを、如来様のみ教えを
われも信じ、他人にも、少しでも聞いていただけるように精進しなければならないでしょう。
阿弥陀さまの智慧と慈悲によって救われた私たちですから、「人々に阿弥陀如来の智慧と慈悲」を伝えなければなりません。
親鸞聖人は、磁石にくっついた釘は、その釘も磁力を放つように、阿弥陀さまの智慧と慈悲を身に受けて、人々にまた、この阿弥陀さまの智慧と慈悲を伝えることのできる身となると言われています。
そして、如来さまの智慧の光に照らされて、確かな方向性を見いだすことができた身ですから、迷信に迷う必要はありません。
み教えをよりどころに無碍の一道を歩むのです。
「正信偈」次のように説かれています。
『極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲无倦常照我』
「極重悪人はただ阿弥陀仏の名号を称えよ
私も亦(また)、阿弥陀仏の摂取光の中に抱きとられているのだ
煩悩の眼には見えないけれども 大悲阿弥陀仏の慈悲は、倦むこと无(な)く常に我が身を照らしている」
どんなことがあっても変わらない拠り所というものが、この言葉の中にある「大悲無倦常照我」に示されていると感じます。
順縁、逆縁、人生はさまざまなことが起こります。色々な縁の中に生きています。
ですから順調なときもあり、逆境のときもあります。
どんなときにも、変わらない拠り所。 それを「摂取不捨」(せっしゅふしゃ)という言葉が表しています。
こちらから働きかけ、こちらから願うのではありません。「必ず救う」という如来さまの願いを聞かせていただくのです。
他人を蹴落として自分だけが幸福になろうとする生き方の私であります。他人を生かすことが自分を生かすという智慧の無い私であります。
そんな凡夫の私に、「自他ともに心豊かに生きることのできる社会の実現」へ生きて行く方向性が示されているようです。
『「
摂取不捨
(
せっしゅふしゃ
)
」
浄土真宗のみ教えは、私の心がどのようであろうとも、阿弥陀さまが
この私を、必ず仏にせずにはおらない、という
摂取不捨
(
せっしゅふしゃ
)
の光の中に
生かされてあるということであります。
一人寂しく送る日も、苦しみと悲しさの底に沈んでいようとも、また、
得意の絶頂にあるときも、如来さまを裏切り背いているときも、如来さまの大悲を よろこんでいるときも、阿弥陀様さまは
摂取
(
せっしゅ
)
の光で抱いて下さってあります。
凡夫の目には見えずとも
大悲は常に照らします。
いつでも、どこでも、阿弥陀さまとともにあるという人生を、力強く歩む日々を、
南無阿弥陀仏と届けて下さってあるのです。』
【
荘厳寺
(
しょうごんじ
)
だより 第36号・昭和64年1月1日発行より】
『光西寺日帰り旅行』が、平成29年9月19日(火)7:50〜17:30、 周防大島・「荘厳寺」「ジャムズガーデン」「サンシャイン サザンセト」「星野哲郎記念館」「サザンセトとうわ」を訪問して、行われました。
その時に、白鳥 文明師のご法話と引き続き、シンガーソングライターでもある、白鳥智明【ちあき】さん(→白鳥文明氏の長女)の、ご法話と歌を聴かせて頂きました。
白鳥文明師のご法話を、私の記録を頼りに紹介させて頂きます。
今、読みますと、あらためて、味わい深く感じさせられます。
つまり、どんな時にでも、変わらない拠り所を教えられていると感じます。最後にご紹介させて頂きます。
☆白鳥文明師のご法話☆
「人類で最初に南無阿弥陀仏とおっしゃったのはお釈迦様です。
お釈迦様が悟りを開いた時に、
煩悩
(
ぼんのう
)
がゼロになります。
煩悩の火が消えた状態を
涅槃
(
ねはん
)
『ニルバーナー』と言います。
人間が仏に成った時に、見えてきた世界があったのです。
私たちが住んでいる時間と空間の世界があります。
私たちが住んでいる時間と空間の世界は、時間と空間の無い世界によって支えられている。
時間と空間の無い世界から全てのものが生まれ出て、全てのものは時間と空間の無い大きな働きの世界に帰っていくことに気がつかれたのです。
仏教は『発見』です。真理を発見されたのです。
元々あった真理をお釈迦様が発見されたのです。
発明ではありません。作り事では無い話です。
その真理とは、『時間と空間の無い
凄
(
すご
)
い世界から全てのものが生まれ、時間と空間の世界は時間と空間の無い世界に包み込まれて、 その中に全てがあり、そして全てのものはそこへ帰っていく。』
その『働き』に『
阿弥陀
(
あみだ
)
』と名付けたのです。
先に『働き』があったのです。
その『働き』に南無せよ。
その
阿弥陀
(
あみだ
)
のいのちに帰ったときに、私たちは阿弥陀の『働き』に成っていく。
『働き』ですから、『働き』は何にでもかえってくることが出来る。
時間と空間の無い大きな働きを持っているということは、
制約
(
せいやく
)
の無い大きな『働き』に、私たちの命が成っていくということです。
それに『南無する』ということは、この世の救いなのです。
お釈迦様という悟りを開かれた方が話をされるのです。
それを私たちは『はあー凄いなあー。』『はあー。』と聞くだけですよ。
私たちはその『働き』を聞くだけなのです。
分からないまんまに。
そういう世界ですね。
誰れでも、この『働き』にうなずいたら、今ここで、救われていくということになっていくのです。
今ここで、そのことをハッキリ頂いていくということが、今の救いということです。
私の命の在りようがどうなろうとも、私たちは生まれた時から、その大きな『働き』の世界に浮かんでいるということです。」
【白鳥文明師の御法話を聞いて 私の記録より】
南無阿弥陀仏
『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』
☆☆法語☆☆
*花
花には
散ったあとの
悲しみはない
ただ一途に咲いた
喜びだけが残るのだ
【坂村真民】
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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