2025年10月 第168話

朝事*住職の法話

いまここしかない私」
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
 今月は「いまここしかない私」という題にしました。
 「蓮如上人御一代記聞き書き」に次のように説かれています。意訳したものを掲載します。
 『「仏法を聞くには、世間の用事をする好い機会に、その用事をやめても聞くようにせねばならない。
  世間の用事をしてしまって、それから好い機会をつくって仏法を聞こうと思うことは 浅間あさましいことである。
 仏法を聞くには、明日に延ばすことはあるべきではない。」
 と蓮如上人は仰せられたそうである。
 「たとい大千世界を焼き尽くす火の中をくぐりぬけても南無阿弥陀仏の名号を聞かねばならぬ。
 この名号を聞いて信ずるものは、再び迷界に退転することなく、一歩一歩、浄土へ生き伸びる身にしていただけるからである。」
 と御開山聖人【親鸞聖人】の和讃におさとしなされてあることである。』
 
 (「蓮如上人聞書新釈」梅原真隆を参考にしました。)
 
 ここに蓮如上人の言葉として、原文には「仏法には明日という事はあるまじき由の仰に候。」という言葉があります。
 「仏法には明日というものはないんだよ!」と言われているのですね。
 これは年寄りも若者も同じ条件ですね。いつでも、「今・ここ・私」というものが問題になっているわけですよね。
 もちろん、世間のことも大切です。日々やらなければならない仕事があります。
 それも大切ではあるけれど、生命の解決はもっと大切であり、また緊急を要することと説かれているのですね。
 「出る息は入るを待たぬ」という無常な浮世である、という事も、蓮如上人は言われています。
 一瞬一瞬が死に面していると説かれる。仏法は明日の話ではなく、今 ここに存在する この私一人への法話である。
 浄土真宗の法話は、「またこの次に聞けばいい。」というような話ではない事になる。
 ここに、「浄土真宗の教えは 平生業成へいぜいごうじょう」ということがうなづけるのではないだろうか。
 「平生へいぜい」に対して、 「臨終来光りんじゅうらいこう」ということが言われる。

 つまり、「お迎え」ということを世間ではよく聞く言葉だけれど、「死ぬ時にお迎えがあるのだろうか?」という不安を持つのが人間の心理である。
 それに対して 「平生業成へいぜんごうじょう」とは「今 ここ 私」の上に、すでに「来光」があるのだ。
 お仏壇の御本尊の阿弥陀如来を拝んでいると、「私は、お前の所に来ているよ。」という阿弥陀さまのお心が拝される気がするのだが如何だろうか?
 しかし、 「平生へいぜい」とは 「臨終りんじゅう」を否定するものではなく、「平生とは臨終を含めての平生である。」ということらしい。
 今ここ 私が平生であるなら、臨終になれば、そこが 今 ここ 私の平生であるという事もできる。
 私自身を反省しても、やはり「お念仏に出会えたよろこび」というものが無かったので、平生ではなく、臨終になってみなければお迎えが来るかどうかはわからない?
 そういうことになっていたのではないかと反省する次第であります。
 もちろん臨終も大切ではあります。
 私の父は平成5年に62歳で亡くなったのですが、病院から連絡があり、「今晩が山ですよ。」ということを告げられ、急いで病院に駆けつけました。
 母が父のそばに居て、大きな声で「有難う」と言っていたのを覚えています。
 すると突然、母は私の方を向き、「お前も僧侶として何か言うべきことがあるだろう。」と振られたので、しどろもどろになり、「お父さん阿弥陀さまが導いてくれているから心配ないよ。」と いうようなことを言ったら、母が「まあいいだろう。」と言ったのを覚えています。

 臨終というものは厳粛なもので、襟を正すべきものではありますが、それだからこそ、今 ここ 私の上に常に南無阿弥陀仏となって、阿弥陀さまが寄り添っておられることを、 お念仏を通して頂くことが大事なのではないでしょうか。
 御文章の「無上甚深章」に次のように、南無阿弥陀仏のことが説かれています。「蓮如上人のことば」稲城選惠 法蔵館を参考にさせて頂きました。
 
 『「それ南無阿弥陀仏とまうす文字は、そのかずわづかに六字なればさのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには、無上甚深の功徳利益の広大なること、 さらにそのきはまりなきものなり。
 されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。
 さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。」
 
 蓮如上人は、「信心とて六字のほかにない」と言われている。
 ということは、名号は、信仰の対象として、彼方におかれていない、自らの自力の造作は全く介入することの出来得ないもののまま、この私の存在するところには、いつでも どこでも 届けられているからである。
 名号は仏の手元におかれているのではなく、この私の存在する場の今 ここに、すでに与えられているのである。
 それゆえ、聞信と同時に 即得往生そくとくおうじょうの益をうる 平生業成へいぜいごうじょうの義が成立するのである。
 信心といっても、彼方に存する対象に向かうものではなくて、自ら信ずるという、主体的な動作を 媒体ばいたいとするものではない。
 逆に自らの造作は全て否定され、与えられたそのままの相状を言うのである。
 それゆえに、蓮如上人は「自力の心をすてて一心に弥陀をたのむ」と言われる。
 救われるか否かの問題はすべて弥陀のはからいであり、自らのはからいは否定されざるを得ないのである。
 それゆえ「六字のほかに信心とてあり得ない」こととなる。
 この六字の法は仏陀の言葉にあるごとく「人生最大の富」というべきである。
 我々の名誉、地位、財産、教養などは死の自覚の前には何ら支えにならない。
 いかに親しい妻子も、この私を支えてはくれない。
 生死を超えた不生不滅の、永遠を場とする名号法こそ、この私を支えてくれる唯一なるものである。』
 【「蓮如上人のことば」稲城選惠 より】
 私たちは、仏さまといっても、浄土と言っても、向こうに眺め、拝む対象として、彼方に思い描いているのではないだろうか?
 仏壇の御本尊の阿弥陀さまに対しても、人それぞれで、色々な思いを以て拝まれているのではないでしょうか?

 阿弥陀さまに「今日もどうかお守りください。」とお願いしてみたり、また、仏壇に手を合わせても、阿弥陀さまのことは全く思わず先祖のことを思っている方もおられることでしょう。
 人それぞれで、それはそれでいいのですが、やはり、先祖が残して下さった、この仏壇というものの姿の意味を頂くとき、我々の先祖は、「阿弥陀さまに、今 出会ってくれよ、 それが本当の幸せなんだよ。」と教えたいがために、このような仏壇というものの形を残して下さったのではないか?
 そんなことを日々仏壇に向かいながら思うことです。
 「人生のともしび」稲城選惠 探究社 に次のように説かれています。
 
 『煩悩は自己中心の眼鏡をかけてることから生起する。この眼鏡を取ることは至難の業といわれるが、その実践を仏教では修行というのである。
 その修行の方法は宗派によって異なるが、多くは自らの努力で煩悩を断ち切ろうとする。いわゆる自力の行である。
 これに対して親鸞聖人の浄土真宗ではこの煩悩のままで生死をこえて行く道が開かれているのである。
 この大道こそお念仏の法である。
 お念仏の法はだれでもついていける道であり、いつでも、どこでもすでにこの私の上に与えられているのである。
 このことをお姿で説明しているのが皆さまの家の仏壇の内容であり、正面のご本尊の意味である。
 ご本尊は南無阿弥陀仏をお姿で説明したものであり、「正信偈」や「浄土三部経」、「御文章」などはまた文字で説明されたものである。
 それ故、仏壇の内容はこの私一人を遊離しては全く意味がないこととなる。
 この念仏の法則ち南無阿弥陀仏の法にあうと地球上の財産がすべて自らのものになったよりもより大きな宝を得たことになる。
 というのは死のうと生きようと全く用事のない答えがこの私に与えられているからである。
 この地上にない たからをこの私に祖先を通じて伝えられているのが仏壇のほんとうの意味といわれる。
 それ故、我々の祖先から伝えられた最大の財産は仏壇であるといわれるのである。
 
  平生業成へいぜいごうじょうということ  浄土真宗とは
 
 「あなたの家は何宗ですか」と人から尋ねられると、「ウチは門徒です」という。近畿地方では門徒と言っても通じますが、正しい名称は浄土真宗です。
 すると浄土真宗とはどんな 宗旨しゅうしですかと聞かれる。
 「ウチの方は昔から門徒もの知らずといって、何もややこしいことはせいでもよい。気楽な宗教ですわ。
 また、誰か死ぬと早速「ウチは門徒だから門徒のお寺にお願いしなければならない」という。

 浄土真宗ということは「何も知らなくてもよい」ということでもなく、死んだらお願いするだけの関係のものでもない。
 この私を除いては関係ない教えである。
 この私は今生きている。しかもこの私は世界中どこに行っても存在しない。
 この私に問いを持たないものには、せっかく地球上にないたからを与えられていても通じないのである。
 元来、仏教といえば、禅宗とか浄土宗とか真言宗とかを問わず、死んだ人には一切関係ない教えである。
 ところが現代では仏教とかお寺とか、あるいは仏壇、お経、お坊さんといえば、死人との関わりしか考えられない人が多いようである。
 実は全く反対である。
 逆に神さまは生きている人につながっているように思われている。

 結婚式を神式でする人は多いが、仏式で行う人は少ない。
 現代の日本人は仏教の受取り方をまったく逆さまにしているのである。
 世界中の宗教の中で、仏教だけは死んで霊魂があるかどうかということを問わない宗教である。
 答える必要がないからである。   龍樹菩薩りゅうじゅぼさつはこのような質問は、牛の角をしぼって乳が何リットル出たかと聞くようなものであると言われている。
 まったくトンチンカンの質問ということである。
 というのは、仏教で問題としているのは、今 ここに生きているこの私自身であるからである。
 この煩悩具足の凡夫であるこの私がそのまま超えていく答えが念仏である。
 それ故、念仏往生といわれ、往生とは浄土に直結しているのである。
 浄土はさとりの世界である。この念仏の法は、今、ここに、既に、この私の上に与えられている。
 この私の手元に既に与えられていることをお姿で説明されているのが、皆さんの家の仏壇や、 お寺の御本尊である。
 また、皆さんの家の仏壇では右側に「帰命尽十方無碍光如来」とかかっている。
 この名号は真ん中の御本尊 南無阿弥陀仏をお姿で説明されているもの の働きの面から天親菩薩がつけられた 名号である。
 いつでもどこでも、この私の存在するところには常に先に来てくださっていることを意味するのである。
 それ故、この私には逃げ場所も隠れ場所もないことになる。
 この南無阿弥陀仏の念仏の法にあうと、死ぬことに用事のない世界が開かれているのである。
 それを文字で説明しているのがお経であり、「正信偈」や「御文章」である。
 それ故、「御文章」は「宝章」ともいわれているのである。
 この宝は地球上の宝をすべて自分のものにしたよりももっと価値のある高い宝である。
 平生業成の平生とはいつでもということであり、いつでもとは、今 ここということである。
 今 こことは、私の存在する場所である。業成とは、 業事成弁ごうじじょうべんの略語で、往生の因が成就すること、つまり後生の一大事の解決の答えがすでに与えられているということであり、それをお寺で聞くのである。すると、 今ここで聞かせていただいた場所がそのままこの私がたすかる場所といわれるのである。』
   (「人生のともしび」稲城選惠 探究社 より抜粋)
 南無阿弥陀仏   
 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
              
ただ念仏して 
           
それが深い悲しみであれ、また深い 
           
喜びであろうとも、人間の心の真底 
がゆすぶられた時、「なむあみだぶ 
つ」が口をついて出てくる。   
この念仏が、遠い昔から人々の口を 
ついて称えられ、続けられて来た 
ということは、何と尊いことであろ      
 う。「ただ念仏して」ここには自分   
に属する一切が否定されて、如来の 
呼びかけに随順する自然法爾の世界   
がある。いずれの行も及びがたい 
人間の深い自覚がある。この私の      
口をついて出る念仏の中に、如来の    
本願の呼びかけが大きく響いて 
聞こえてくることのありがたさ。   
【「伝道集掲示」 小山乙若 より】   
    


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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