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2024年11月
第157話
朝事*
住職の法話
「
如実知見
にょじつちけん
とは」
住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
今月は「
如実知見
にょじつちけん
とは」という題にしました。
「
如実知見
にょじつちけん
」を辞書で調べると、「現実をありままに見抜くこと」
「事実や本質を、寸分違わずに見抜くこと」を意味します。
私は、「あるがままに見る」とは、「他人を、目の前にいる人を、そのままに見ることが、あるがままに見ることだ。」と思って疑いませんでした。
あるご法話で聞いた話に、
「あるがままにものを見るとは、あるがままにその人を見ないことだ。」
と言われました。
つまり、その人が生まれて、家族と出会い、学校に行けば、そこでの出会いがあり、職場での出会いがあります。
それら全てから、感化を受けて、影響を受けています。
生まれて、親との出会い、家族との出会いがあり、大きな感化、影響を受けます。
親の考えに子供は影響を受けざるを得ないですよね。
学校では、先生から、学友から影響を受け、職場で上司や同僚や友達との出会いがあり、その方々から感化を受け影響を受けます。
それらの全てを含めて、その人を見ることが「ありのままに見る」ということなのだと教えられました。
そうしてみると、「あるがままに見る」ということは、実は大変難しいことだと思わずにおれません。
夫婦でも、育ってきた過程も違う人間が、一つ屋根の下に住むわけですから、色々と難しいことも起こるわけですよね。
他人とでも、目の前にいるその人しか見えないですよね。
「何で、この人はいつもこうなんだろう!?」と思うことは簡単ですが、「その人の生まれてから、今日までの全てを含めて見ること」は難しいことですよね。
「この人は、いつもこんなふうだけれど、どんなふうに育てられたのだろう?」それくらいは想像しますけどね。
いい年をしていても、周りの状況、他の人間のことが考えられない人はいますね。
自分のことしか考えられないような、まるで、その時その日の気分で生きているような人がいますね。
そういう人に対して、感情だけで反応したり、考えてもいけませんし、表面的なことばかりを見ていてもいけないのでしょうね。
又、それと共に、「自分はどうだろう?」「自分も同じではないのか?!」という疑問も抱かざるを得ませんね。
また、他人は、機嫌のいい時もあれば、機嫌の悪い時もありますね。
ケースバイケースで、決めつけることはできませんが、他人の機嫌の悪いのは、その人自身の問題で、他人が解決することではないですよね?
何故 私がその人の機嫌が悪いのを気にしなければならないのでしょうか?
何故 私がその人の機嫌をよくしなければならないのでしょうか?
私は、何故他人の機嫌を気にしなくてもいいと思うか?
それは、「人間というものは、私も含めて、本当に自分勝手なものだ。」と思うからです。
自分は適当にいい加減なのに、他人に対しては完璧を求めていると感じるからです。
「お互い様」と許し合う気持ちのゆとりがほしいですね。
しかし、このような悩みは、この世を生きて行く上では誰もが受ける、逃げられない当然の人生苦なのでしょうね。
だから、そこにある種の覚悟みたいなものが要るのかも知れません。
また、何よりも、そのようなマイナスの出来事ばかりにとらわれ、常にマイナス思考、ネガティブな感情ばかりで生きている私自身が一番の問題なのでしょう。
このような愚かな私だからこそ、仏さまの教えを聞くことが大切になってくると思う次第です。
仏さまの知恵の光に照らされること、生地の自己の姿を知らされ、認識することが大切になってくると思う次第です。
多くの問題は、自分自身の真の姿を知らないところから来ているのでしょうか?
人生、自己中心的な人間の機嫌を取ろうとすればキリがありません。
絶えず他人の機嫌ばっかり見て、気を使っていては、気の休まることはありませんよね。
自分の機嫌をとることを、無意識的にも、他人に強要しているような人もいますよね。
人間は弱い生き物ですから、「私はこんなに苦しいのよ。少しはわかってよ。」と訴えているのでしょうか?
私だけでなく、お客さん相手の商売の人は、さぞかし大変なことだろうし、無理難題に対応する辛さがあることでしょうね。
絶えず、神経が磨り減ることだろうと思いますね。
退職しても、いつまでも、仕事をしていた頃のストレスが残ったままの人もおられますね。
仕事をもう辞めたのだから、忘れてもいいようなものなのに、中々そうはいかないみたいですね。
如何に接客や仕事の対人関係が大変なものだったか?!ということを思わされますね。
また、苦しんでいるさなかでは、「この苦しみが永遠続く。」と思いつめたりしますが、この苦しみが永遠に続くことはないですよね。
他人に対して色々愚痴を言いながらも、他人の支えなくして、生きていくことは不可能ですね。
仏さまの教えを通して、絶えず自分の姿を知らされて、共に凡夫と知らされていくことが大切なのでしょう。
そして、自分が間違ってといると感じたならば、改めるべきは改め、前向きな明るい気持ちで広々とした世界があることに気づく生き方がしたいものです。
自分から暗い世界、暗い世界へと無意識的に向かっていては、誰にも好感を持たれないでしょうし、手のつけようがなく、どうしようもないのかも知れませんよね?
何より、そういう自分自身の愚かさに気づかないことが一番の問題で、教えを聴くことが私にとって必要なことだと思わずにおれません。
どんなことが起こっても、その中から、結局は「仏法聴聞」「学仏大悲心」に帰っていくしかないと思っています。
人間に生まれさせていただき、得難い仏縁をいただいていることを有難く感じています。
ある仏法の先生が次のようなことを教えられている。
「慈悲と慚愧【ざんぎ】」
これほど尊いものはない。
如来の大慈悲心を仰ぎ、信ずることによってのみ、人間は慈悲の人となる。
仏教の光りに照らされてのみ、人間は慚愧の頭べを垂れる。
慚愧【ざんぎ】なきものは人にして人に非ず。
仏陀の教えを聞かずして、心の平和はあり得ない。
個人個人の心の中に平和ありて、而して後に世界の平和がある。
如来の慈悲を実行せずして、如何に議論してみたところで、世は益々濁り、人は益々苦しみを増すのみである。
然るに現代に於ける仏教の衰退を見よ。
仏教衰退してどこに国家の昌隆ありや、人類の平和ありや。
悪い事を見るなよ。
悪い事を聞くなよ。
悪い事をするなよ。
悪い事を見聞覚知し、悪い環境に居ると、朱に交われば赤くなる道理で、知らず識らずのうちに、自分の人格が悪くなる。
慎むべし、恐るべし。
人生生活 三大原則
@相手の身になって考えよ。
Aあれも如来様の可愛い子と思え。
B苦しいことが起こっても、「死ぬよりましかい」と思うべし。
たえず、仏法に触れていることが 大事だと、しみじみ思わされることです。合掌
『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』
☆☆法語☆☆
*ありがたや
死んでまいる浄土じゃないよ
生きてまいるお浄土さまよ
なむあみだぶつにつれられて
ごおんうれしやなむあみだぶつ。
*さいちがごくらく どこにある
心にみちて身にみちて
なむあみだぶつが わしのごくらく。
*さいちわどこにをる
浄土もろをて娑婆にをる
これがよろこび なむあみだぶつ。
*わたしゃ 臨終すんで 葬式すんで
みやこ【浄土】にこころ住ませて
もろうて
なむあみだぶと浮世にをるよ。
『妙好人 浅原才市の詩』
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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