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2025年5月
第163話
朝事*
住職の法話
「
真っ暗闇
まっくらやみ
」
住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
今月は「
真っ暗闇
まっくらやみ
」という題にしました。
「地獄の救い」曽我弘道 探究社という昭和49年発行の本ですが、その中に次のような話が書かれてありました。
『あるご婦人が、涙をためて述懐されておりました。
「私は大阪の街のまん中の、禅宗の商家にうまれたものであります。
主人と結ばれ、暫く大阪にいましたが、主人の仕事の関係等でこちらに事務所をもつようになり、帰って来たのがこの草深い田舎の農家でありました。
こちらは一帯に、浄土真宗の信仰が大変盛んで、姑は、とてもとても有難いお念仏者でありました。
朝から「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」とお念仏申していますのを、若い私は、田舎者と馬鹿にしておりました。
大体、禅宗生まれの私たちは、ナムアミダ仏といえば、葬式か法事の、抹香臭いことばで陰気なものにしか思っていませんでしたので、朝からお仏前に参る、 いや参らされるわけですが、そんな時は仕方なしに要領よく口だけ動かして、言葉なんかは出しませず、心の中ではただ、主人の仕事がよくゆきますように、私を幸福にして頂けますように、 とお祈りばかりしておりました。
先程も申しましたように、こちらは浄土真宗の盛んな土地でありますから、いつも家族そろって、お寺の聴聞に参らなければなりません。
お寺に参ってもお説教など、とんとわかるものでもありません。あれを考えたりこれを思ったり、ご講師さまの上手な世間話しの時だけは耳を傾けておりましたが、あとは一向たいくつで、 仏さまやあの世やよくあんなことが信じられるものと、門徒もの知らずはこのことだろうかと、むしろ軽べつににた思いで聞いておりました。
何日かのお説教がすむと、その休んだあいだの仕事をとり戻す為に、どっと仕事がくるのです。
こうして座っている間でも働いていたらあとが楽なのに、よくまあ辛棒してみんな仕事を犠牲にしてまで、座っていなさることよと、どれほどこの法座に参っている人を、不可解の思いで 眺めたかもわかりません。
それよりも、私が来ました当時は機械もありませず、鎌一つ見たことのない私にとって、朝早くからの農事は大変つらいことでありました。
何時も母の後ろについて働いておりましたが、老人なら嫁に仕事を頼んで、お寺参りの暇もつくれるということも考えられますのに、若い農家の主婦が、本堂に座って有難そうに聞いていられるのです。
お百姓育ちだから慣れているとはいうものの、農作業をしない都会の主婦でさえ、掃除洗たくに追われるのに、外の仕事が忙しい人たちが一体どんな家事のやりくりをされるのやらと、 全くそんな若い女がお寺参りされているのをみると、世界が違うようにもありました。
母は、私がお寺へ参っていると機嫌がよいので、私が油をとるのは格好の場所でもありましたが、しかし、面白くもない話しを聞かねばならないのが、馬鹿馬鹿しくつらく感じられてなりませんでした。
そんな私も不思議なことに、年がたつにつれてお寺参りも慣れてきて不自然でなくなり、お話もわかるようになってきました。
家のお参りも、朝夕おつとめをしないと、何か忘れているような気がしてきたものでございます。
私は、主人が好きでこちらに参りましたので、百姓は一つも好きではありません。
それでも、下手べたと百姓のまねを、何かややっていますと、日も過ぎてゆきました。母は、いつも私がよく働いてくれると喜んでくれていましたが、私は一向働いてはいませんでした。
都会育ちを鼻にかけてもいましたし、母もそれを遠慮しての云葉だったと思います。
母と野良に出かけるときには、きまって主人に、頃あいをみはからって、用事をこしらえて、迎えに来てくれるように頼んでおきました。
主人も、よくこころえて、忙しそうだと近くの事務所から帰って、「一寸この書類の整理を頼む」とか、「町まで走りつかいをたのむ」とか何とか、私をつれだしてくれました。
勿論、その分だけは母の負担になるわけであります。
私は、「ハイ」と返事をするととんで帰り、お茶を煎れ羊羹など切って、主人と無駄話をしては、また忙しそうに野良にかえったものであります。
それでも母は、「ご苦労さんだった。馴れないのにすまんのう」と、少しの小言も言われないでお念仏申されておりました。
ある秋の日の午後、一人で元気に野良に出ていられた母が、今日はどうも胸がつかえるようで身体がしんどい、何か食中毒でもしたんかいなといって床に入られました。
私は勝手の方で子供のことをしていましたが、何か呼ばれたように思い、部屋に行ってみましたら、もう息がたえておりました。
本当に、お念仏の一生涯でありました。
何かお母さんが死なれても、どうもそう思えない日がつづきました。そして、どうかすると、お念仏の声が襖から、台所から、納屋の方から聞こえてくるような気が致しました。
姑も死に、どれだけか年もたち、私もすっかり地方人になり、お寺参りの同行になってゆきました。
私の子供も生長して、先年長男に嫁を貰いました。今はその嫁と一緒に野良仕事をしているのでございます。
この頃のことでございますから、随分と嫁にぐちもこぼしたいこともございます。
この嫁はまたどうした因縁か私と同じ条件で、私と同じ都会の真中から来ているのであります。
家は日蓮宗ですから、私の若い時のように全く浄土真宗のことはわかりません。
しかし、慣れないのによく働いてくれますから、有難いことだと思っております。
この嫁と一緒に働きながら、ふと、若かった私のとおい昔を懐かしく思い出していましたある日のことでありました。
まてよ、今、もしこの嫁がこれだけの仕事を前にして、昔の私と同じようなことをしたら。
今、もし息子が嫁を呼びに来たら。一体、そのとき私はどうするだろう、と思いましたとき、私は一瞬背すじがかたくなるような思いが致しました。
お恥ずかしいといいましょうか、恐ろしいといいましょうか、何か身体がかたくなって、走ってにげたいような思いを感じました。
よくこそ、よくこそお母さんは私を叱って下さらなかった、お母さんは、私のズボラを知っていられたかも知れません、しかしただの一言もそのことをなじらず、 「ああ、よく働いてくれた、行っていい行っていい」と云ってはお念仏していられました。
あの時は、たしかに私は母に、稲束を投げつけたかと思います。
それは、ある暑い午後でした。母は、稲架にハシゴをかけて、藁を積み重ねておりました。
下から私が渡すのであります。疲れとけだるさで、大分前から夫の迎えを待っているのに今日に限って一向に来てくれないのであります。
今日かくべつつらい日だからと、たしかに約束しておいたはず、それなのに、どうしたことなのか、事務所もそんなに多忙でもないだろうに、来客だろうか、来客ならなおさら、私が接待に必要だろうに、 何度も道の方をふりむいてみても、全然人かげが見えません。私は何か悲しくてムシャクシャして来ました。
そんな時、夫の姿が見えたのであります。ああ、やっぱり夫は愛してくれている、忘れずに迎えに来てくれた、ホッとして、藁を母に渡していましたが、そこまで来た夫が、「おい」と声をかけました、
その時を、予期していた私は、まだ何の用件も聞かない中に、ハイッというなり思はず母に藁たばを投げつけたのであります。
今考えると、投げたというよりも、ぶっつけたという方がよいように思えます。しまった、と思ったときにはもう遅く、母は受けとってしまったあとでした。ところが、
「ああ、御苦労だったな、すぐ行っておくれ、なるべく早く用事をすませてきておくれよ なむあみだ仏 なむあみだ仏」と、別に用事もきかないで行け行けと私に云ってくれました。
その姑が、口ぐせのお念仏のあとでは、「私のような悪人がのう、浅ましいやつがのう、阿弥陀さんはそのまま救うてやると呼んでおくれるが、お恥ずかしいことよ、有難いことじゃ」 と云っていました。
私はこの母の一人合点が面白く、からかうように「なもあみだぶつ なもあみだぶつ」とお念仏してみせると、ようお念仏申してくれました、と拝んでくれていました。
いま、私は子供の嫁と百姓しながら、この嫁が昔の私のようなことをしたら。
「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
と云われた親鸞聖人のお言葉が、身にしみたことでありました。
いつも母は、親鸞聖人親鸞聖人と口ぐせのように申して、ご開山さまを懐かしがっておりましたが、私がいろいろな質問をだすと、
「ご開山さまはとってもえらいお方じゃった。そのえらいお方が、わしは愚者【おろかもの】だ、罪の深い何もわかっとらんやつだといって、ただお念仏して阿弥陀さまに救って貰うより他には 何もしらんと、ひたすら阿弥陀さまに救われるだけだということを喜ばれ、雨の中や雪の中を歩きまわって、みんなに仏さまのご恩を教えて下さった。」
と、何もしらんがといっては何かと答えて下さいました。
「浅ましいとゆうては、罪が深いとゆうては、自分の性根さまにないているものや、かわいいものに先だたれて、一体、人はどこから生まれてきて、どこへゆくのだろうかと迷っている者に、 阿弥陀さんがいておくれるで心配せんでよい、このしんらんも一緒にその親さまを喜ぶ友だちになろうと、それはそれはご苦労下さった。
わしは、地獄や極楽があるかどうか、見たわけじゃない。あるとおっしゃるで必ずあるだろう、しかしわしにゃそんなことはどうでもよい。
いや、それよりも、わしには、なけりゃ気のすまんものがある。
仏さまやご開山さまに、あれだけご苦労かけといて、一向ご恩しらずのわしにゃ地獄がいっちょ向いとるような。
それを助けるという親が、今一緒におるぞというて
呼
よ
んでいておくれる、そのお呼び声が有難い。
呼び声といえば、若いもんはなんかあの世という、暗い世界のいんきなものを思うとるようなが、あの世は光ばっかしの世界よなあ、明るい明るいところからの呼びかけよ、ここへ早ようこいという お呼びかけじゃのうて、この明るいところから、いつもいつも見とるぞという呼びかけじゃ、いつも阿弥陀さんと一緒におるゆうこっちゃ。
仏さんは、わしらは今無明ゆうて、闇の中にいると云っておいでなさる。
それもお念仏すりゃ、いつも仏さんと一緒よ。こっちからお願いせんでも向こうの方から守っていておくれとる。
それで真宗にはご幣【へい】かつぎもすることがいらねば、吉日えらびや 、、、一つも用はない、気が楽なことよ。」
「わしのお念仏の中には、お釈迦さまも、善導さまも、法然さまも、親鸞さまも、わしのお父さんやお母さんもみんなおられると教えていただいた。地獄へおちりゃそれでもよい、そこにはそれらのお方がたが おそろいで待っていておくれるでのう、行き場所だけは一つも心配せんでよい。」
母はにっこり微笑みながら、こんなことをよく言っておりました。
とにかく、この頃、わからぬままに無理やりお聴聞させられていたこの土地の習慣、家の御恩が一度に芽をふいたように有難く思われて来ました。
もし、私がここへ来ていなかったら、私は何も知らずにのんべんと人生を送って死んでしまっていたことでしょう。
この前久しぶりに、大阪の実家にゆきましたとき、近所のNさんにひょっとお会いしました。
もう随分お年も召しておられましたが、この頃は、、、いろんな幸福の貰える生活をしていなさるとか、、、、、 いろいろいっておられましたが、何やらお気の毒な気がしてしかたありませんでした。
かといって、どうお話ししてみても、わかるもんでもないでしょう。
私にはこの土地の有難さで、お聞かせ頂き乍ら、平素ご恩もわかりませんが、一歩出て法のないところへ行っていろいろ迷信じみたことを言っておられる人びととお会いしてみると、長いお育てということが 知らされます。
因縁ということも、自分の業報ということも、全然考えることのできないお方は何かさみしいように思えてなりませんでした。
私は息子に頼んで京都から聖典を買ってきてもらいました。そして、お寺のご院家さまに、母がこんな意味のことを言っていましたが、どこにあるのでございましょうか、と耳に残っているものに、 しるしをつけてもらっております。
『「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身に みちみちて、欲もおほく、
瞋
いか
り、腹だち、そねみ、ねたむ心多く、
間
ひま
なくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、消えず、たえず』(一念多念証文)
『親鸞におきては「ただ念仏して
弥陀
みだ
にたすけられまいらすべし」と、よきひとの
仰
おおせ
を
被
こうぶ
りて信ずるほかに、別の子細なきなり、念仏はまことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄に堕つべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり、 たとひ法然上人に
賺
すか
されまいらせて念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候・・。
いづれの行も及び難き身なればとても地獄は一定すみかぞかし』(歎異抄)
『また浄土へいそぎ参りたき心の無くて、いささかも所労のこともあれば「死なんずるやらん」と心細くおぼゆることも煩悩の所為なり、
久遠劫
くおんごう
より今まで
流転
るてん
せる
苦悩
くのう
の
きゅう里
きゅうり
は
棄
す
て難く 未だ生まれざる
安養
あんにょう
の浄土は恋しからず候ふこと、まことによくよく煩悩の
興盛
こうじょう
に候ふにこそ
名残惜
なごりお
しく思へども
娑婆
しゃば
の縁
尽
つ
きて力なくして終わるときに彼の土へは参るべきなり
いそぎ参りたき心なきものを ことに
憐
あわれ
みたまふなり。』
(歎異抄)
『一人にても殺すべき業縁なきによりて害せざるなり、我が心の善くて殺さぬにはあらず、また害せじとおもふとも百人千人を殺すこともあるべし」
吾らが心の善きをば「よし」と思ひ悪しきことをば「あし」と思ひて「本願の不思議にて助けたまふ」といふことを知らず・・」(歎異抄)
『聖人の仰には「善悪の二つ総じてもて存知せざるなり その故は如来の御心に善しと思召すほどに知り
徹
とほ
したらばこそ 善きを知りたるにてもあらめ 如来の悪しと思召すほどに知り徹したらばこそ 悪しさを知りたるにてもあらめど
煩悩具足の凡夫
火宅無常
かたくむじょう
の世界は
萬
よろず
の事みなもてそらごと・たわごと・
真実
まこと
あること無きに、ただ念仏のみぞまことにて
在
おは
します』(歎異抄)
『
悪性
あくしょう
さらにやめがたし こころは
蛇蝮
じゃかつ
のごとくなり
修善
しゅぜん
も
雑毒
ぞうどく
なるゆえに
虚仮
こけ
の行とぞなづけたる」
『
蛇蝮奸詐
じゃかつかんさ
のこころにて 自力修善はかなふまじ 如来の廻向をたのまでは 無慚無愧【むざんむぎ】にてはてぞせん』
私は時どきこれらのお言葉を、声を出して読ませていただきます。
すると、あのお母さまが浮かんで来て、涙が出てきて御念仏のお声が耳のところできこえるようで、私もそれにつれてお念仏をさして頂きます。
まだ姑も生きておりました時、いつ頃からかお寺参りになれて、お話しがわかるような気もおきていました。
そんな時また心の下から、地獄や極楽が本当にあるのだろうかと思い、仏様の実在を一生懸命考えてみました。
そして、結局仏様はわかるものではない、神様も仏さまも同じお方で、信ずるときにのみ存在されるお方だと思うようになりました。
だから信心しなければならないのだと思っておりました。でも、どうしても信心ができません。
最後には、とにかくお話しをきいていると気が静まるのは不思議で、心の安まる何よりの世界とも思っておりました。
母もなくなり、お念仏を申される身になりました此の頃は、「地獄」があるの「極楽」がどうのという探索の思いもとうに消えました。
仏様の実在やら、神様方と一緒だなどという理くつでおいかけた思いもばからしくなり、ただただ母のお念仏の声がハッキリしてくるばかりでございます。
そして、私には阿弥陀如来だけなのだと、すがるみ親のあることを喜ぶばかりでございます。
蓮の花の咲いた極楽へゆけるということよりも、明るい明るい世界から今も私を見ていて下さる。
その仏さまや、お母さまの居られる明るいところへ行ける、いや帰れるのだと思うと、それが何より嬉しくあります。
あのお母さまの口から出ていた「お念仏」の世界へ帰られたら、それでよいのでございます。
そこはとてもとても美しい美しい、きれいなお浄土だと思わずにはいられません。
迦陵頻伽
かりょうびんが
が
囀
さえず
り、まぶしいような天地に五色の雲がただよい、雲の中に
七宝
しっぽう
の
楼閣
ろうかく
がそびえ、花の中のお母さまを想像します。
私も、その花のお浄土へ帰らして頂いたその時は、先ずに最初に義母に両手をついて、お母さんにお詫びをさせていただこうと、楽しく思い浮かべております。」と。』
【「地獄の救い」曽我 弘道 探究社 より抜粋】
姑のお念仏が嫁に伝わっていく様子が、実感をもって細かく描かれていて、とても感慨深く味わわせて頂きました。
やはり、人間を動かすのは理屈ではない。理屈などいざとなったら、真っ先に吹っ飛んでしまうものなのかも知れません。
そうではなく、人間を深いところから支える働きというものは、人間を超えたところからの働きであるということが思われてなりません。
この姑さんというのは、ただの「お人よし」や「間抜け」な方ではなく、教えを聴聞する中で、自分自身のありのままの姿というものを厳しく見つめられていたお方のように感じました。
次のように書かれているところがありますね。
『その姑が、口ぐせのお念仏のあとでは、「私のような悪人がのう、浅ましいやつがのう、阿弥陀さんはそのまま救うてやると呼んでおくれるが、お恥ずかしいことよ、有難いことじゃ」 と云っていました。
私はこの母の一人合点が面白く、からかうように「なもあみだぶつ なもあみだぶつ」とお念仏してみせると、ようお念仏申してくれました、と拝んでくれていました。
いま、私は子供の嫁と百姓しながら、この嫁が昔の私のようなことをしたら。
「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
と云われた親鸞聖人のお言葉が、身にしみたことでありました。
いつも母は、親鸞聖人親鸞聖人と口ぐせのように申して、ご開山さまを懐かしがっておりましたが、私がいろいろな質問をだすと、
「ご開山さまはとってもえらいお方じゃった。そのえらいお方が、わしは愚者【おろかもの】だ、罪の深い何もわかっとらんやつだといって、ただお念仏して阿弥陀さまに救って貰うより他には 何もしらんと、ひたすら阿弥陀さまに救われるだけだということを喜ばれ、雨の中や雪の中を歩きまわって、みんなに仏さまのご恩を教えて下さった。」
と、何もしらんがといっては何かと答えて下さいました。
「浅ましいとゆうては、罪が深いとゆうては、自分の性根さまにないているものや、かわいいものに先だたれて、一体、人はどこから生まれてきて、どこへゆくのだろうかと迷っている者に、 阿弥陀さんがいておくれるで心配せんでよい、このしんらんも一緒にその親さまを喜ぶ友だちになろうと、それはそれはご苦労下さった。
わしは、地獄や極楽があるかどうか、見たわけじゃない。あるとおっしゃるで必ずあるだろう、しかしわしにゃそんなことはどうでもよい。
いや、それよりも、わしには、なけりゃ気のすまんものがある。
仏さまやご開山さまに、あれだけご苦労かけといて、一向ご恩しらずのわしにゃ地獄がいっちょ向いとるような。
それを助けるという親が、今一緒におるぞというて
呼
よ
んでいておくれる、そのお呼び声が有難い。
呼び声といえば、若いもんはなんかあの世という、暗い世界のいんきなものを思うとるようなが、あの世は光ばっかしの世界よなあ、明るい明るいところからの呼びかけよ、ここへ早ようこいという お呼びかけじゃのうて、この明るいところから、いつもいつも見とるぞという呼びかけじゃ、いつも阿弥陀さんと一緒におるゆうこっちゃ。
仏さんは、わしらは今無明ゆうて、闇の中にいると云っておいでなさる。
それもお念仏すりゃ、いつも仏さんと一緒よ。こっちからお願いせんでも向こうの方から守っていておくれとる。
それで真宗にはご幣【へい】かつぎもすることがいらねば、吉日えらびや 、、、一つも用はない、気が楽なことよ。」
「わしのお念仏の中には、お釈迦さまも、善導さまも、法然さまも、親鸞さまも、わしのお父さんやお母さんもみんなおられると教えていただいた。地獄へおちりゃそれでもよい、そこにはそれらのお方がたが おそろいで待っていておくれるでのう、行き場所だけは一つも心配せんでよい。」
母はにっこり微笑みながら、こんなことをよく言っておりました。
とにかく、この頃、わからぬままに無理やりお聴聞させられていたこの土地の習慣、家の御恩が一度に芽をふいたように有難く思われて来ました。
もし、私がここへ来ていなかったら、私は何も知らずにのんべんと人生を送って死んでしまっていたことでしょう。』
このように書かれていますが、姑が何気なく、いつも話していた風のような言葉が、知らず知らずに嫁さんに感化を与えていたような感じがしますね。
『とにかく、この頃、わからぬままに無理やりお聴聞させられていたこの土地の習慣、家の御恩が一度に芽をふいたように有難く思われて来ました。』
という言葉がございますが、これもご縁というものなのでしょうか?
「仏縁」というものの有難さを思わずにおれません。
また、嫁さんは「聖典」求められ、姑が話していた言葉の出処【でどころ】を聖典を通して確認されていますね。
姑さんは聴聞で聞いた「聖典」のお言葉を、自分自身に深く味わい、また、それを嫁さんにも話していたのでしょうか。
嫁さんが、わざわざ「聖典」を求めて、その「聖典」の言葉を声に出して味わわれている。
そこまでの感化を、姑さんは与えられていることに驚きます。
また、次のように書かれていますね。
『呼び声といえば、若いもんはなんかあの世という、暗い世界のいんきなものを思うとるようなが、あの世は光ばっかしの世界よなあ、明るい明るいところからの呼びかけよ、ここへ早ようこいという お呼びかけじゃのうて、この明るいところから、いつもいつも見とるぞという呼びかけじゃ、いつも阿弥陀さんと一緒におるゆうこっちゃ。
仏さんは、わしらは今無明ゆうて、闇の中にいると云っておいでなさる。
それもお念仏すりゃ、いつも仏さんと一緒よ。こっちからお願いせんでも向こうの方から守っていておくれとる。』
お浄土という世界は、今真っ暗闇の中にいる私を明るい明るいところから、呼びかけていて下さる、それがお念仏の味わいのように教えられる気がします。
浄土というものが、ともすれば、陰気な暗いイメージで受け取られやすい気がしますが、決してそうではなく、明るい明るい世界であり、その世界から、今、呼びかけられているのだ。
そういうことが味わい深く書かれていて、素晴らしいと思います。
昔も今も、人間というもの、
生死
しょうじ
の問題は、同じことではないでしょうか。
この姑さんのように、身近に教えを話して下さる方がおられるということは、大変恵まれた「仏縁」のように感じますね。
しかし、この嫁さんも最初から、お念仏をよろこんでおられたわけではなく、長い年月の「仏縁」による「お育て」というものが、芽をふいたという感じがしますね。
私たちも自分に恵まれている「仏縁」というものに、もっと目を向け、お念仏の心を深く味わわせていただきたいものでございます。
この姑さんの言葉を深く学び、味わい「仏縁」とさせていただきたいものです。
「西東わからぬ 祖師に導かれ」という言葉を聞いたことがございますが、実際、私というものは、「西も東もわからぬ」何一つ確かなものなどわからない「真っ暗闇」の存在ではないでしょうか?
しかし、この「真っ暗闇」を照らす灯、大きな大きな灯、「明るい明るい世界」からの呼びかけ、それがお念仏というものなのかも知れません。
共に、この素晴らしいお念仏の世界を、仏法を聴聞することを通して味わわせて頂きたいものだと思わずにおれません。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
「生も死も 仏と共に 旅の空」「道知らねども 祖師に導かれ」
「南無阿弥陀仏は 仏のいのち 通い来りて 私のいのち 一つの息が お念仏」
親鸞聖人を心から尊敬しておられた姑さん、その謙虚な学びの御生涯に導かれていきたいものです。 称名
『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』
☆☆法語☆☆
*お呼び声
1わたしひとりを 目当ての六字
阿弥陀如来の ご本願
2受けた、もろうた 六字の御名は
連れてゆくぞの お呼び声
3聞いた、聞こえた ナマンダブツは
助けさせよの 親ごころ
4おろかなる身に 南無阿弥陀仏が
雨のごとくに そそがれる
5信の上から 称える御名は
御恩報謝の お念仏
ナマンダブ ナマンダブ
「ねんぶつ子守歌」蓮下義昭
自照社
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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