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2020年1月
第99話
朝事*
住職の法話
「間違いないのは
仏様
(
ほとけさま
)
《
つつしんで新年のお慶びを申し上げます。本年もよろしくお願い申し上げます。
皆様はどのような新年を迎えられましたでしょうか?
一期一会といいますが、こうして無事に会わせて頂くことの有難さを感じさせられる今日この頃です。
私はこの度の正月2日の午前7時頃でしょうか?広島市西区のある駐車場に、駐車していました。
車のドアを開けて外に出た瞬間に、真上の空に、低空飛行で、鳥の大群が美しい編隊を組んで、すごいスピードで飛んでいるのを見ました。
私の真上でしたし、低空飛行で、すごい数の鳥が美しい編隊を組んで、すごいスピードで空を渡っていました。圧巻でした。
「これは何なんだろう?なんて美しいのだろう!《我忘れ、見とれ、しばらく言葉を失いました。
荘厳な美しい光景を見て、しばらく感動していました。
言葉を失いました。この世界の美しさを垣間見た様な気がしました。
昔から、空飛ぶ鳥というものが、色々なイメージでとらえられていたようですが、あまりに速いスピードで大群だったし、 美しい編隊を組んだ姿で、何秒かのことでしたので、言葉もありませんでしたし、表現のしようがありません。
鳥たちが空を渡っていく途中で、私に少しだけ挨拶してくれたのなら、こんな嬉しい事はありません。
このような美しい光景が見れたことは、仏様が見せて下さったのだと思わずにおれません。
美と驚きの一瞬でした。
先日、「現代の忘れもの《武田達裕師遺稿集 という本を頂きました。
武田達裕師 【広寂寺】の三回忌を機縁に、遺稿集が制作されたのでした。
発行は九夜会という布教研鑽の集まりでした。
その本の中には、感銘受ける素晴らしい話が載っていました。
色々紹介したいのですが、その中に、「宗教心《という一節がございました。一話だけ、ご紹介させて頂きます。
共に、亡き武田達裕師の心に、静かに耳を傾けさせて頂きたいと思います。
『宗教心
宗教心という言葉は、何か漠然としていて、人によっても考え方が違うので、分かりにくく誤解を受けやすいと思います。
特に若い人はこの言葉に、古くささや押しつけがましさを感じて反発するかもしれません。
しかし、現代人はもう一度 宗教心を考え直し、それを大切にしてゆくことが重要になっていると思います。
私は、宗教心とは「二つの中心を持つことだ《と考えています。
一つの中心は持って生まれた自分の思いです。
自分の思いとは、自分の欲求を通そうとし、うまく行けば喜ぶし、うまく行かないと腹が立ってしまう心です。
もう一つの中心は、そのような自分の思いを超え、私の外から動いてくる大きな働き、仏教的に言うと仏様の働き、仏様の願いの心です。
仏法を喜ぶご婦人がおられます。
この方は原爆で大切な二人の娘さんを失い、幸せの絶頂から悲嘆の底に突き落とされました。
ご主人に「娘を返してくれ、返してくれないのなら死にたい《と当たって毎日 嘆き続けられたそうです。
それに対してご主人は、「それほど死にたいのなら死んでもよいが、紊得してから死ね《と言って仏教書を渡されました。
その日から命がけの求道の生活が始まりました。
そして仏法を喜ぶ素晴らしい方になられました。
後年 私がお会いした時に「今はどう考えておられますか《と伺いましたら「私が間違っておりました。あの子たちは この愚かな私の心の目を 開いてくれるために来てくださった、仏様のお遣いでございました《と言われました。
このご婦人は しだいに寝たきりになられました。
数年後に ご家族から「一度そちらの寺に お参りしたいと言っているので連れて行きます《という連絡がありました。
すっかり認知症になっておられるだろうと思っていましたら、とんでもありませんでした。
手を引かれて来られましたが、目は澄んで輝いていました。
「寝ていると 今まで読んだ仏教書の一字一字が はっきりと目に浮かんできます。
そして、こんな身になっても自分から決して離れないものが二つあることに つくづく気付かされました。
一つは自分の思いです。もう一つは それを包んで離さない仏様のはたらきです《と言われました。
自分の「思いの心《は一生涯消えることはありません。だからこそ、そこに はたらく「自分の思いを超えた はたらき《をいただくことが大切であると思います。
この二つの中心を持ち、二つの心を見つめることが宗教心ではないでしょうか。』
【平成十五年《2003》一月十四日】
このような文章でした。
「宗教心とは《二つの中心を持つことだ》と考えています。《と言われるのですね。
「一つの中心は持って生まれた自分の思いです。自分の思いとは、自分の欲求を通そうとし、うまく行けば喜ぶし、うまく行かないと腹が立ってしまう心です。《 とあります。
まさに日々の心は、この通りですね。自我 中心の心ということですよね。
しかし、静かに、考えてみると、これだけの心で人生を終わってしまうならば、実に哀れな淋しいことになるのではないでしょうか?
「もう一つの中心は、そのような自分の思いを超え、私の外から動いてくる大きな働き、仏教的に言うと仏様の働き、仏様の願いの心です。《とあります。
これは自我の心ではない心のようです。無我の心と言えるものでしょう。
仏教で、「神通力《(じんづうりき)というものが説かれています。
「六神通(ろくじんずう、ろくじんつう)《というものが説かれています。
意味は→「仏教において仏・菩薩などが持っているとされる6種の超人的な能力。
6種の神通力。六通ともよばれ、止観の瞑想修行において、止行(禅定)による三昧の次に、観行(ヴィパッサナー)に移行した際に得られる、 自在な境地を表現したものである。 《と説明されています。
具体的には下記のように説かれています。
①神足通(じんそくつう)→ 機に応じて自在に身を現し、思うままに山海を飛行し得るなどの通力。
②天耳通(てんにつう)→ ふつう聞こえる事のない遠くの音を聞いたりする超人的な耳。
③他心通(たしんつう)→ 他人の心を知る力。
④宿命通(しゅくみょうつう)→ 自分の過去世(前世)を知る力。
⑤天眼通(てんげんつう)→ 死生智(ししょうち)→ 一切衆生の過去世(前世)を知る力。
⑥漏尽通(ろじんつう)→ 自分の煩悩が尽きて、今生を最後に、生まれ変わることはなくなったと知る力。
このように説かれています。
難しい説明になりましたが、敢えて難しいことを言いたいわけではありません。
つまり、「無我になると、自我というものが段々少なくなって、天地と一つになる《そんなことが説かれているようですね?
無我の状態、つまり天地と一つになると、耳が無くしてものが聞こえ、目が無くしてものが見えるということが説かれているのでしょう。
何と素晴らしいことでしょうか。
日々「私が、私が、、《という自我の思いから、二十四時間、一瞬も離れることが出来ない私です。
目立ちたいばっかりの私です。
皆に良く思われたいばっかりの根性なんです。
自己顕示 自己嫌悪 その繰り返しですね。
しかし、自分に分かる自分の醜い姿なんかは、仏様から見られたら、ほんと一部分の私の姿に過ぎないのでしょうね。
「大海の水の量は測ることが出来るとも、自己の心の中の微細な動きは分からない。《【「華厳経《】
というような意味の言葉がお経に説かれてあるそうですが、確かに、自分の心の微細な動きというものは、自覚し難いものでしょう。
自分で気づかないような、どんな恐ろしい浅ましい心が微細ながらも、絶えず自分の心の中に起こっているか分からないのですね。
仏様は、私の全てを知り抜き、見抜いた上で、「必ず救う我にまかせよ。《と、南無阿弥陀仏となって呼びかけておられるのですね。
「仏様が今、見てござる。《という法語の重さ深さを、もっともっと我が身の上に味わわないといけないなあーと思うことでございます。
無我の世界など、知り得ない私です。
「無我と言うけれど、実際に今、私はここに居るじゃないか?!どこが無我なんだ!《と言いたいのが、私の根性です。
つまり、自我の立場からは、とうてい理解が上可能な世界が仏様の無我の境地ということなのでしょう。
無我の世界など、実際には、私には、とうてい分かりはしませんし、理解も上可能ですし、実証することは全く無理ですね。
しかしながら、上思議と、「仏様の無我の境地というものは、何と素晴らしいものなのか!何と尊いものか!《という気持ちが湧いてきます。
これが本当に上思議なことだと思うのですね。
「ブッダのことば《スッタニパータ に次のように説かれています。
『この世または来世におけるいかなる富であろうとも、天界における勝れた宝であろうとも、われらの全き人(如来)に等しいものは存在しない。
この勝れた宝は、目ざめた人(仏)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。』
「ブッダのことば《スッタニパータ 中村元 訳(岩波文庫)
「仏様は、いつも私と一緒である《
「生も死も 仏と共に 旅の空《
ということも、こうした神通力という面から味わってみるのも、新鮮なのではないかと思うのです。
「南無阿弥陀仏は親様である。《
「見てござる。《「護ってござる。《
という味わいも、仏様の無我の世界から言い得ることではないでしょうか?
信仰の上で、仏様が一緒だと言われても、どこか上安感が起こってくるのは、真実に「仏様が見てござる。《ということが徹底していないからなのでしょうか??
これに関連して、ある有難い同行が言われていたことを思い出すのです。
その人は、あっちこっちの寺に参り、仏法聴聞を熱心にされている方のようです。
ある時、次のように私に話されたことがありました。
まるで独り言を言うように言われました。
亡きご主人のことを「花を見ても お父さん(ご主人のこと)空を見ても お父さん(ご主人のこと)《と言われていました。
その時は何を言いたいのか?全く分かりませんでした。
しかし、六神通の説明を聞いて、あの有難い奥さんが言われていたことは、こういう味わいではなかったか?
「何を見ても 亡きご主人《と味わえるのは、どういうことなのでしょうか?
「亡きご主人は、仏様に成られたのだから、姿は無いけれど、宇宙と一つになっているのだから、いつでも、どこでも主人は居るのだ。《
そういう味わいを、その奥さんは「花を見ても お父さん(ご主人)、空を見ても お父さん(ご主人)《と言われていたのではないかと思うのです。
その奥さんに直接、聞いてみないと分かりませんが、私はこのように味わわせて頂いた次第です。
正月になると、いつも思い出す法話があります。その話を、ご紹介して終わらせて頂きます。
正親 含英(おおぎ がんえい)師の『歎異抄の背景にある「観経のこころ《』【法蔵館 出版】の中に載っていた話です。
(他の本にも載っているのかも知れませんが、、、)
『 念仏に、驚きがたつ
本年の元旦には、沢山年賀状を頂きましたけれども、そのなかに、心うたれる年賀状に 二、三 出会ったのであります。
その一通は、こういう年賀状であります。
年賀状は私も そうするのでありますが、十二月のうちに書いて差しだします。
これでは正月の気分が ちっともしないのですが、心うたれたのは、元旦に きちっと書いた年賀状であります。
その葉書には こう書いてあるのです。
まあ おめでとうと書いてね-
「せめて元旦の半日だけなりとも、心静かにありたいと思います。ところが、元旦の半日の間も、欲しがる心が でてきます。
人を責める心が でてまいります。うらやむ心が でてまいります。
せめて正月の一日の半日だけでも、そういう心が ないようにと思うても、責める心や 欲しがる心が でてまいります。
その時に、ふと お念仏が出てまいりました。《』
このような文章なんですね。
実感がこもっている年賀状のような気がします。
私は、人との会話の中で、格好いい言葉も結構ですが、自分の本音をさりげなく言われるのを聞くことが、たまに ありますが、それも中々いいものだと思うのですね。
「この方は、私に本音をさらけ出して見せてくれた。《と思い、共感すると共に、言いようのない嬉しい気持ちになってくるのです。
この年賀状を書かれた方の環境については、詳しくは知りませんし、どういうシチュエーションの中で書かれたものなのか、よく分かりません。
しかし、この方は、「私のようなものの口から南無阿弥陀仏という声が出て来た。《ということに驚きを感じておられるのですね。
私は日々お念仏を称えさせて頂いていますが、この方のように驚きを感じているだろうか?
そんなことが指摘されている話のようにも感じます。
ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称吊
☆☆☆法語 紹介☆☆☆
*南無阿弥陀仏 仏の御吊と
おもいしに、助くるぞよの
親のよび声
*今死ぬる身をば
そのまま助くると、
ひまなく ひびく
親のよび声
*阿弥陀仏、ここを去ること
遠からず、称うる人の
袖や たもとに
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え《の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い《
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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