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2019年4月
第90話
朝事*
住職の法話
「
火中
(
かちゅう
)
の
蓮華
(
れんげ
)
《
豊臣秀吉が亡くなるときに【慶長3年8月18日(1598年9月18日)豊臣秀吉 亡】詠んだ歌に
「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢《
という句が、秀吉の辞世として知られています。
裸一貫からスタートして日本中を駆けめぐり、才能と努力で、天下人に成りあがり、天下統一を果たした英雄ですから、 「わしの一生は成功だ。私は成功者だ。《と誇っても、よさそうなものですが、この歌にはそのような言葉は出ませんでした。
反対に、「浪速のことは 夢のまた夢《という言葉が出ました。
「難波《というのは、「大阪《のことですから、天下をとり、大阪を中心に極めた栄耀栄華も、 死んで行くときには、夢の中で夢を見ているような、はかないものでしかなかったと、 その内心の感情をよく表した言葉だと思います。
秀吉の空しさ、やるせなさ、人の世のはかなさのようなものを感じます。
人の心を打つものがあると思います。実感がこもっていると感じるのですね。
秀吉が臨終の間際、五大老を枕元に呼んで、「秀頼のこと、くれぐれも頼む《と、幼い秀頼への忠誠を繰り返し誓わせ、行く末を頼んだことは有吊な話です。
これも人情として当然のことなのかも知れません。秀吉も人の子ですよね。
「そらごとと思いし浄土がまことにて まことと思いし娑婆がそらごと み仏は いまだ見えざり 聞くたびに いづくにおわすと空をたずぬる
み仏は いづくにおわすと 聞き抜けば 求める前に抱かれてあり。《
「生きても 死んでも 阿弥陀如来の 掌のうち《という法語を思い出します。
阿弥陀様は、仏壇の前で手を合わせる時だけ、向うにおられるのかと思っていたら、そうではなく、今の私の所に働いていて下さり、 「生きても 死んでも 阿弥陀如来の 掌のうち《と働いていて下さると味わわれた方がおられるそうです。
仏様はじっとしておられるのではなく、活動しておられるのですね。仏様は生きてござるのですね。
蓮如上人は 「御文章《に次のように述べられています。
「それおもんみれば、人間はただ電光朝露の、ゆめまぼろしのあいだの たのしみぞかし。
たといまた栄花栄燿(えいがえいよう)にふけりて、 思うさまの事なりというとも、それはただ五十年乃至百年のうちの事なり。
もしただいまも、無常のかぜきたりてさそいなば、いかなる病苦に あいてかむなしくなりなんや。
まことに、死せんときは、かねて頼みおきつる妻子も、財宝も、 わが身には一つもあいそうことあるべからず。
されば、 死出の山路のすえ、三途の大河をば、ただひとりこそゆきなんずれ。
これによりて、ただふかくねがうべきは後生なり、 また たのむべきは弥陀如来なり、信心決定してまいるべきは 安養の浄土なりと、おもうべきなり。《
【 御文 1-11 電光朝露・死出の山路】
「稲妻や朝露のごとき、夢や幻のようなものが人生である。《と言われています。
「人生の楽しみは稲妻のようにはやく、朝露のようにはかない、夢や幻のようなものだ。《
「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる 妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、 唯一人こそ行きなんずれ。《と説かれています。
「まことに死せんときは《→「あなたがいよいよ死んでゆくときは《という意味です。
「かねて《とは、「今まで《という意味です。
「たのみおきつる妻子も財宝も《とは、「これまでたよりにし、心の支えにしてきた全てのもの《という意味です。
「わが身には一つも相添うことあるべからず《とは、 「死ぬ時は、どんな愛する家族もついては来てくれません。 どれだけお金があっても、死んでいく時は持ってはゆけません。 地位も吊誉も、全て、この世においてゆかねばなりません。《という意味です。
お互いに、「死ぬのはまだ先だ。《と、目の前の欲望に駆られている時には、 「夢のまた夢《なんて思いもしないのですが、今まで必死で成し遂げたことも、集めてきたものも、全てを置いて、 たった一人で旅立ってゆかねばなりません。
自己の無常に出会うことによって、今まで気づかないで過ごしてきた自己を夢と感じる。
ある先徳は次のように味わわれました。
「夢と感じるときに、夢以上のものが背後に働いている。しかし、ただ夢だと感じるだけで終わってしまっては残念なことである。《
ただ夢に過ぎないというだけなら、確かに虚無的になってしまいます。
私は、ここで「松影の暗きは 月の明かりかな《という歌を思い出します。
「松影の暗きは 月の明かりかな《月の光によって影が写るのです。光と影、これも一つのものであります。
月の光が強く、明るくなるほど、松の影は濃く、ハッキリと見えるようになります。
仏の慈悲に照らされて、心の月がこうこうと光を放てば、己が身の汚れに気づくことでありましょう。
月光が明るいほど暗さは増す。「教え《という「光《に照らされて自らの暗さに気付くことが出来るのですね。
自分の目では分からない。仏の心の目なら分かる。「光《に触れていくこと、「教え《のご縁に会うことの大切さを思います。
凡夫の私の目は、他人の非を見つけることばかりです。仏様の目は自分の非を見つける働きです。
私は他人の姿を見て、「世の中には悪い奴もいるものだ。《と思っています。
ある先徳が言われました。「お釈迦様なら、『お前の方が、もっと悪いぞ。』と言われることでしょう。 もちろん、面と向かって言うのではなくて、お釈迦様なら、遠回しに上手に言われることでしょう。
又、お釈迦さまは、『他人のことを追い回すより、自分を探すことが大事だ。』と言われています。
『凡夫は相手が悪いとは思いますが、自分も同じだとは、中々思えないのではないのですか?』と言われることでしょう。《と。
こんな言葉はお釈迦様だから言えることです。
お釈迦様のような、智慧ある仏様が説かれるのならいいでしょうが、私のような凡夫が言ったら、どういうことになるでしょうか?
この世の中では、よくよく考えて、相手に言わないと、面と向かってまともに 「あなただって、どんな悪い事するかわかりませんよ。《なんて言ったら、長年の友人関係も壊れてしまうことでしょう。
世の中の色々な悪の人間の姿は、ある意味で「他人の姿を見て、自分も同じじゃないか?《という問題提起をされているのかも知れません。
「自分はあの人とは違う。自分は善であり、自分は正であり、絶対に間違っていない。《というのは 「自惚れ《「自己過信《というものが人間の心に強くあるからでしょう。
凶悪な事件を起こした人間でも、誰が見ても、犯人が悪いと感じるような事件でも、犯人である本人自身は、「自分は間違っていない《と言う事がありますよね。
「自分は正しい。善だ。間違っていない。《という自負は、生きていく上では必要なものなのかも知れませんが、一つ間違えば、大変迷惑なことになりますよね。
そういう事件を見るにつけ、人間の心には、大きな闇があると思いますね。
「無明の闇《という「闇《です。
子供が凶悪な事件を起こすことがありますが、子供の心の中にも闇があり、その闇には誰も入っていけないのでしょうか?
先生も、友人も、親も、、?「闇はとても深い。《という感じがします。
親鸞聖人は「教行信証《の序文の「総序《のところで、 「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。《と言われています。
「何ものにもさまたげられることのない阿弥陀仏の光明は、真実の智慧がない人間の闇を破る太陽である。《という意味です。
『闇を破るのが光』です。
「阿弥陀仏の光明は、私達の無明の闇を破る智慧の太陽である《と、教えられるのです。
信者の言葉に「信心は火中の蓮《という法語がありました。
私の心は絶えず煩悩の炎が燃え上がっています。まさに「火中《ですね。
「欲しい、欲しい、もっと欲しい。《という「貪欲《【とんよく】の心、自分の欲が叶わなければ「憎らしい、腹が立つ。《という「怒り《の心、 「情けない、情けない《と、いつまでも道理が分からず、グズグズとボヤキ続ける「愚痴《の心。
この三つを「三毒の煩悩《と説かれています。
阿弥陀様は、貪欲には「清浄光《と働き、怒りには「歓喜光《と働き、愚痴には「智慧光《と働かれます。
やはり欲は汚いのですね、それに対して清らかな清浄なる光で働きます。
世間でも、怒る者には怒りで対したら火に油ですよね。
怒る者には笑顔で対することが大事だそうですね、怒りには歓喜の光で働きます。
愚痴は智慧がないところから起こるのですから、愚痴のこころには智慧の光で働かれるのですね。
よく思い出す歌なのですが、もうお亡くなりになられたあるお婆さんのつくられた歌に次のような歌がありました。
「今日も又、紅蓮の炎が燃え上がる、南無阿弥陀仏の消防車、消しても消しても、また燃える《
という歌だったと思いますが、 自分が説教を聞く中で、自分のあるがままの姿を見つめられた、尊い歌だと思います。
ある信者の方が、お念仏を称えながら、自転車で道を通行していたら、向うから、バイクがやって来て、ほとんどすれすれにぶつかりそうになったそうです。
その時に、その人は、念仏を称えていた口から、「死んでしまえ。《と思わず言ったそうです。
さっきまで喜んでお念仏を称えていた口から、一瞬のうちに、「死んでしまえ。《になった自分の心に驚かれたそうです。
そのことを自覚されているところが中々凄いのではないでしょうか?
「死んでしまえ。《とは「地獄の世界《ですよね。「死んでしまえ。《というこの口から、お念仏【仏様】が出て下さると味わわれたそうです。
こんな煩悩は自分にとって嫌なものですし、こんな煩悩なんか無くなってしまえばいいのにと思います。
しかし、この嫌なものですが、煩悩というものをご縁に、み教えを味わってきたのが、信者の生活ではなかったでしょうか。
「火中の蓮《とは、まさに「煩悩の生活に働く仏様の救いの働き《ではなかったでしょうか?
ある信者の方は「今までは、この煩悩をどうしよう。と思っていたけれど、仏様のみ教えのご縁に会ってからは、この仏様のご恩をどうしようになってきた。《 と言われています。
「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。《という阿弥陀様のご縁に遇うことの大切さを思います。
阿弥陀さまの光は常に照らし護って下さるのです。
源信和尚(げんしんかしょう)も「大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ。《と述べられています。
『私が、どんなに煩悩があろうが、罪が深かろうが、大悲の光明は、嫌うことなく、私を包み照らしているのです。』
しかし、当然なことですが、 「どんなに煩悩があろうが、罪が深くても、救って下さるのなら、何でも悪い事を好き放題にすればいい。《というみ教えではありませんよね。
昔から、ここを聞き間違えて、悪い事をし放題にした人がいたみたいですが、「聞き間違い《ということの恐ろしさを思わされます。
また、教えを説く者の責任も感じます。正しいことを説くよう努めたいものです。
教えで、「落ちるものを助けるご本願《と言います。
私の地金は変わりません。依然として煩悩具足の凡夫であって、わが力では迷いを出られない私であります。
その落ちる地金のままで救いを頂き、救いから退かない身にならせて頂くのです。
石は沈むのが自性であります。その石が船に乗せられたならば、沈む地金のままで沈まずに川を渡ります。
船に乗せられた石は沈まない。石が変わったのではありませんが、船に乗せられたために沈まないだけです。
私達は悲しいかな、この肉体が無くなるまでは、地金は変わりません。
ですから、日常生活においても、自らを省みて、たしなみ、また少しでも如来の思召しに添うように、より善き生活を心がけることが大事ことは言うまでもないことです。
親鸞聖人は、自分の煩悩の姿を省みて悲傷されておられます。
それは単なる罪悪感による畏怖【おそれ】ではなく、如来様のお慈悲に抱きとられた己の姿を恥じていられるのでありまして、 その恥じられるままが、広大な救いの喜びの中にあります。
「み仏の鏡にうつる わが姿 落ちる私と知らされる 助かる私と知らされる《
ある県では、阿弥陀様のことを「はたらき様《と呼ぶのだそうです。
光明は「はたらき《なんですね。光明のはたらきに気付いた時、すなわち信心をいただいた時、無明の闇が晴れるといわれるのです。
『闇は、闇を破ることはできません。』
「明来闇去《という言葉があります。
『闇は、光によって破られるのです。』
「正信偈《の中に「極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)《 (極重の悪人はただ仏を称すべし)という言葉があります。
「極重悪人《をわがこととして味わい、同時に、そんな私をほっておけないという弥陀の大悲の中に摂め取られているということを味わう。
「松影の暗きは 月の光かな《という歌でたとえられますように、月の光に照らされて、はじめて松影の暗いことがわかる。
松影の暗いことが知れたのは月の光に照らされたことにほかならない。
「法の光りに照らされて自分の罪深いことが知らされる《
私達にとって大切なことは、阿弥陀様の願いを聞かせて頂くことです。
阿弥陀様
(
あみださま
)
が見抜いて下さった、私の本当の姿を聞かせて頂くということです。
私が煩悩【ぼんのう】をそなえた凡夫【ぼんぶ】であることを聞かせて頂くのです。
そして、それは、そのまま、私の愚かさをほっておけないというお慈悲の働きを聞かせて頂くことです。
教えを通して、自分の力では気づくことの出来ない私の愚かさ、危なさを知らせて頂くとき、 私を見抜く阿弥陀様の中に、今、この私があることに気づかせて頂くのであります。
ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称吊
☆☆最後に法語を紹介させて頂きます☆☆
目にみえぬ 仏は声と 姿かえ
命と業の中にまします
気づかせる 業は仏の 光なり
自覚をさせる お智慧なりけり
この我を 動かす命 仏なり
まもり助ける みだの呼声
限りなき 光と命の み仏は
めざめをさせて 救う親なり
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え《の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い《
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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