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平成30年10月
第84話
朝事*
住職の法話
「
後生
(
ごしょう
)
の
一大事
(
いちだいじ
)
《
「
後生
(
ごしょう
)
の一大事《という言葉があります。
葬儀の時に拝読する「白骨の御文章《【蓮如上人のお手紙】の中にも、「後生の一大事《という言葉があります。
「されば人間のはかなきことは老少上定のさかひなれば、たれの人もはやく『後生の一大事』を心にかけて、 阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。《
→『この世は、無常なる世界であることを知らせて、驚きを感じさせ、私たちの呑気な、欲望にふける生活に警告を発し、 「後生の一大事《を自分自身の問題とし、阿弥陀如来の本願(ほんがん)願いである「必ずあなたを仏にする。《という呼び声に信順し、 阿弥陀如来の本願によって信心をめぐまれた上は、 念仏申す報謝の人生を歩むべきことが急務であること』が説かれています。
ここで「後生の一大事《とは、「後生も迷い続けるか、浄土に往生するか《の問題が何よりも大事であるということです。
「後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて《とあります。
ここで、「たのみまゐらせて《→「たのむ《という言葉の意味が現代使われている意味と違いますので、間違わないように、気をつけて、正しく味わいたいものです。
「阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて《は、 「阿弥陀仏にお願いする《という意味ではありません。
ここで、「たのむ《という言葉の意味は、「お願いする《「請い求める《という意味ではありません。
「たのみにする《という「依憑(えひょう)《の意味であります。
ここでは、「たのみにする《という意味であります。
「阿弥陀如来の本願によって信心をめぐまれた上は、 念仏申す報謝の人生を歩むべきこと《とあります。
「報謝《とは「ご恩報謝《ということですね。
仏教で、「恩《ということを説きます。
「恩《という字は「原因《の「因《に「心《という字を書きます。
「因《という字は、「広い敷物の上に人が大の字に寝ている《そういうことを表しているそうです。
「それだけの大きな働きを受けている。頂いている。《ということです。
だから、うち任せて、大の字に寝ていられるのでしょう。
「広い敷物の上に人が大の字に寝ている《ということは、それだけの「原因《を既に頂いているからですね。
それだけの「原因《とは、『阿弥陀如来の本願(ほんがん)願いである「必ずあなたを仏にする。《という呼び声』ということです。
ある仏法の先生が言われました。
「人間として生まれ、この世を超えた仏法の勉強をすることは、人間として、一番 善い事なんですよ。《
坊さんが、こんなこと言うと、何かとても手前味噌のように感じられるかも知れません。
また、「一番 善い事《とは、少し言い過ぎではないか?と思う方もあるかも知れませんね。
「一番 善い事《ということは『この世を超えている』というところから、「一番 善い事《ということを言われたみたいに感じましたね。
『この世を超えている』ということが大事なところなのでしょうか?とにかく大変印象に残りました。
とにかく、この言葉は、私には忘れられない強烈な印象を抱いている言葉でありますし、この言葉によって、 私が今も拙いながらも、仏法の勉強や仏法の聴聞が出来ているのだと思うのです。
私にとってはとても力ある言葉なんですね。
「この世を超えた仏様の心を学ばせて頂く、
仏法聴聞
(
ぶっぽうちょうもん
)
することは、とても価値ある善い事です。《とも先生は言われました。
『
学仏大悲心
(
がくぶつだいひしん
)
』
→「
仏
(
ぶつ
)
の
大悲心
(
だいひしん
)
を
学
(
まな
)
ぶ《
ということが、「
仏法聴聞
(
ぶっぽうちょうもん
)
《の
要
(
かなめ
)
であると教えられています。
法話
(
ほうわ
)
を聞くのは、何を聞くのか?
→「
仏
(
ぶつ
)
の
大悲心
(
だいひしん
)
を
学
(
まな
)
ぶ《ということです。
「
後生
(
ごしょう
)
の一大事《ということについて、味わわせて頂きたいと思います。
道宗
(
どうしゅう
)
という信者がおられました。
蓮如上人に深く帰依した人です。
道宗
(
どうしゅう
)
さんは「赤尾の道宗心得二十一箇條《というものを書かれています。
「赤尾の道宗《著者 岩見 護 に、次のように書かれています。
《「ごしょうの一大事いのちのあらんかぎりはゆだんあるまじこと《【道宗の原文】
「後生の一大事は、命のあらん限り、油断してはならぬ。《 【岩見 護の意訳】
「後生の一大事《だけが道宗にとって唯一の一大事であったということである。
「一大事とは大事の中の一つということではない。
『たった一つの大事』『一生のあいだを貫く唯一つの大事であって、他にくらべるもののない大切なこと』ということである。
一大事に目覚めることがなかったら、一生は
茫々
(
ぼうぼう
)
としてとりとめのないものとなる。
うろうろとして夢の如く幻の如くにしてすごさねばならぬ。
一生の終わった時、両手を開いてみて、あれほど握ったつもりのものが、一つも残っておらぬのはどうしたことであろうか、と後悔せねばならぬ。
一大事に目覚めたものは、その一大事に驚き、一大事を追求することによって、一生にはっきりした方向が立ち、この世に生まれ出た因縁を 深く喜ぶことができるようになり、死んでも後悔のない身となる。
道宗
(
どうしゅう
)
にとって一大事とは「後生の一大事《であった。
この「後生《とはどういう意味であろう。
後生とは後の世のことであり、彼にとっては、死んでから地獄へ落ちるか極楽に参るかということが最大の心がかりであったので、 どうかして極楽へ参られる道を見つけなければならぬ、ということが
所謂
(
いわゆる
)
後生の一大事である。
一往はそうであろう。だがそれだけでは、この言葉の意味を十分に解したとは言われぬ。
一体「後生《というものはどこにあるのか。
それは今ここにあるのである。
「今《がなくては「後《は考えられぬ。
「後《は「今《の中にあるのである。
だから後生の一大事とは今のわが身の一大事なのである。
今のわが身が助かるか助からぬかということである。》
【『「赤尾の道宗《著者 岩見 護 永田文昌堂 』より抜粋】
「無常《ということを強く感じさせられた書物に「仏陀の観たもの《という書物があります。
『「仏陀の観たもの《著者 鎌田茂雄 講談社学術文庫』に次のように書かれています。
《『仏陀の思想や教説のもっとも古い型を伝えているといわれる原始仏教の経典の一つに「スッタニパータ《(経集)という経典があるが、 そのなかでは次のようにいう。
「世界はどこも堅実ではない。どの方向もすべて動揺している。
わたくしは自己のよるべき
住所
(
じゅうしょ
)
を求めたのであるが、すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを 見なかった。《
(中村 元 訳 「ブッダの言葉《岩波文庫)
この一文は仏陀が自己のよるべき住所を求めたが、真に苦悩を脱した平安な場所を求めることができなかったというような意味ではない。
「世界はどこも堅実ではない。どの方向もすべて動揺している《ことを観た人は常人ではない。
われわれ凡人は世界は堅実だと思っている。大地も、国家も建造物も、さまざまな人間の社会組織も堅実だと考えているのだ。
そして実在しているものといえば、この肉眼で見えるもの、この手でさわることができるもの、両足でふみ立つことができるものと断固とした確信を もっているのだ。
このような凡夫の考えとは、ここにのべられていることは逆転している。
世界に何一つ堅実なものなく、あらゆるものが動揺しているということは、無常の劫火に焼かれた存在であることを示している。
さらに仏陀が自己のよるべき住所を求めてもすでに死や苦しみにとりつかれており、安住の場所がないということは、自己の
依
(
よ
)
るべき住所をはじめとして、あらゆる場所、すべての世界もまた無常の劫火に焼きつくされることを 直観しているのだ。
存在が無常であることは、価値的には苦であることであり、仏陀は世界苦を
如実
(
にょじつ
)
に
知見
(
ちけん
)
していたのである。
仏陀はまことに非人間的なあまりにも恐ろしい理法を観たのであった。
彼自身あまりに
俊厳
(
しゅんげん
)
なあまりにも非情な理法を観て、
慄然
(
りつぜん
)
としたにちがいない。
否、あまりにも非情な理法を観たからこそ、大いなる平安を得たのであろう。
あまりにも
冷厳
(
れいげん
)
な現実の中に生きねばならぬことを悟ったからこそ、この世界苦を慈悲のこころに転ずる以外、 他にいかなる方法もありはしなかったのだ。』》
【「仏陀の観たもの《著者 鎌田茂雄 講談社より 抜粋】
仏陀は、又
道宗
(
どうしゅう
)
にしても、
「無常《というものをいかに真剣に見つめられたかを教えられます。
道宗
(
どうしゅう
)
という信者は、他人にと言うよりも、自分自身に対して言い聞かせているところが感じられます。
そういう道宗さんのことが、心から尊まわれるのですね。
道宗さんの裏には、蓮如上人という仏法の先生がおられたことも見逃してはならないと思います。
私が「後生の一大事《とか「無常《ということを長々と引用したのには、理由があります。
やはり、身近な御門徒さんの往生の姿が、無常の厳しさを知らない、呑気な私に「目覚めよ《と呼びかけているような気がするのです。
それも下手すれば、ついつい忘れがちになる「情けないもの《です。
しかし「ご遺体を見ること《や、「火葬場に行くこと《が、百回 仏法の説教を聞いたくらいのインパクトはありますよね。
先日も、家族を急死で亡くされた遺族が、何回忌かの法事を終えられたのちに、私に次のように問われました。
「主人は急死しました。朝は普通でした。体も別に悪いところはありませんでした。
住職さん、亡くなる時は人間はどんな感じなんでしょうか?《と私の眼をしっかり見つめながら言われました。
私は、ある意味で、「住職さんは、自分が死ぬ時は、どんなになると思っているのですか?《と厳しく問いかけられたように感じました。
あまりに無常ということに呑気過ぎる自分の考え方が甘すぎるのではないか?そう思わずにはおれません。
私はその奥さんに言いました。
『「
後生
(
ごしょう
)
の一大事《ということを仏教では説きます。
親鸞
(
しんらん
)
さまも、 「
生死
(
しようじ
)
出
(
い
)
ずべき道《を求めて、仏法を求めていかれました。
私も 「
後生
(
ごしょう
)
の一大事を忘れてはいけない。他人事ではないんだ!私自身の問題なんだ!《と思って、 自分にそう言い聞かせています。
しかし、そう自分に言い聞かせれば言い聞かすほど、自分は
後生
(
ごしょう
)
のことなんか全く考えていないことに気付かされるばかりです。
恥ずかしいことでが、実際にそうなんですね。
懺悔
(
ざんげ
)
するしかありません。
これでいいとは思いませんが、亡き方をご縁にして、一緒に、後生の一大事を思いながら、仏法を聞きませんか。《という意味のことを言いました。』
*道宗の言葉
「ごしょうの一大事いのちのあらんかぎりはゆだんあるまじこと《【道宗の原文】
「後生の一大事は、命のあらん限り、油断してはならぬ。《 【岩見 護の意訳】
*仏法の先生の言葉
「人間として生まれ、この世を超えた仏法の勉強をすることは、人間として、一番 善い事なんですよ。《
「この世を超えた仏様の心を学ばせて頂く、
仏法聴聞
(
ぶっぽうちょうもん
)
することは、とても価値ある善い事です。《
『
学仏大悲心
(
がくぶつだいひしん
)
』
→「
仏
(
ぶつ
)
の
大悲心
(
だいひしん
)
を
学
(
まな
)
ぶ《
これが「
仏法聴聞
(
ぶっぽうちょうもん
)
《の
要
(
かなめ
)
であります。
*法然上人のお言葉
『受けがたき
人身
(
にんしん
)
をうけて
遇
(
あ
)
いがたき本願に遇いて
発
(
おこ
)
しがたき道心を
発
(
おこ
)
して
離
(
はな
)
れがたき
輪廻
(
りんね
)
の
里
(
さと
)
を離れて
生れがたき浄土へ往生せん事
悦
(
よろこ
)
びの中の
悦
(
よろこ
)
びなり』
【「法然上人御法語《】
ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称吊
☆☆最後に詩を紹介させて頂きます☆☆
元気のいい時に
できるだけ多く
言葉をかけておこう
石たちに
草木たちに
鳥たちに
愛する人たちに
【坂村 真民】
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え《の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い《
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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