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平成30年6月
第80話
朝事*
住職の法話
「
寂静
(
じゃくじょう
)
の世界《
六月に入り、少しずつ暑さを感じるようになりました。皆様如何お過ごしですか?
毎日忙しく追われるように生活していると、他人の欠点は目に付きますが、自分の迷いというものには気づかないもののようです。
「あの人が悪い。《と言うけれど、「自分にとって悪い。《という意味でしょう。
結局は「自分の煩悩《のなせる「迷い《ということになるのではないでしょうか?
そういう意味で、「自分の迷い《というものは、どれくらい深いか検討がつかないくらい迷っているのでしょうね?
「迷える者は 道を問わない《
という言葉を聞いたことがありますが、 「どうも自分はフラフラして、やはり教えを聞かして貰わなければいけないなあー。《 というところから、み教えにも関心が自然と向かうのではないでしょうか?
「私は迷ってなんかいない。他人が迷っているのであって、私は常に迷っていない、正しいのだ。《という気持ちからは、 「み教えを聞かして頂こう。《という気持ちは起きないのかも知れません。
み教えを聞くと、「自分は
凡夫
(
ぼんぶ
)
である。《ということを教えられます。
それと同時に「必ず仏様に成らせて頂く身である。《という
阿弥陀様
(
あみださま
)
の呼びかけに包まれていることを感じさせられます。
「情けないなあー。相変わらず、迷いばかりに沈んでいる私じゃないか。《という溜息とともに、 「そういうあなただから見捨てることが出来ないんだよ。《という
阿弥陀様
(
あみださま
)
の呼びかけを支えに、「頑張ろう。《という気持ちを頂くことができます。
「
悲喜
(
ひき
)
こもごも《ということがありますが、 まさにみ教えを聞くことがそうなのではないでしょうか?
ある先生が言われました。
「人間は自分のことを相手に話すときに、『私なんて駄目です、私はつまらん人間です。』と
卑下
(
ひげ
)
するか、また反対に、実際は自分は10しかないのに、20にも30にも見せかけようとしたり、 なかなか『あるがまま』の自分というものになれない性格があるようです。《と。
もちろん人間には
虚栄心
(
きょえいしん
)
というものがあります。
簡単に言えば「エエ恰好しい《ですね。
「嬉し 恥かし 浮吊を立てて《という
都都逸
(
とどいつ
)
があると聞いたことがありますが、恥ずかしい歌ですね。
人間は「自分のことが一番わからない。《と言いますが、確かにそうですね。
下手をすれば、自分のことは自分の周りの人たちが、よっぽどよく知り尽くしているのかも知れませんね。
それではどうすれば自分の姿が自分でわかることが出来るのでしょうか?
人間だけが「鏡《『かがみ』というものを見ますね。自分の姿を自分で見て、自己を整えようとしますね。
つまり、人間は鏡に照らして見たら、自分の姿が判るということを知っているのですね。
しかし、鏡はあくまで外見の姿だけを映し出し、心の奥底までは映し出しませんよね。
そこで、人間世界では上手くことが運ぶのかも知れませんね。
もし、自分の心の中が全て皆に見えたなら、とても恥ずかしくてまともに道を歩けなくなるでしょう。
師家
(
しけ
)
の部屋に入るのは恐ろしいといいます。
師家とは、禅宗などでいうなら、「師匠《のことでしょう。
禅宗で、有吊な
臨済禅師
(
りんざいぜんじ
)
という師匠がおられました。
彼は「『なにものも ひっかかることなく とらわれることなく 私と共に話をしないか?』と呼びかけるけれど、誰れ一人来ない。《
と言われたという話を
説教
(
せっきょう
)
で聞いたことがあります。
申し訳ありませんが、
論拠
(
ろんきょ
)
と言いますか、正確な
御文
(
ごもん
)
は知りませんが、そういう意味だったと記憶し、理解している次第です。
やはり、どこかに自分の心が引っかかっているから、
空
(
くう
)
の
状態
(
じょうたい
)
で、
師匠
(
ししょう
)
の前に出ることが出来ないのでしょうね。
どこかに自分勝手な
理屈
(
りくつ
)
にとらわれているのでしょうね。
人間は中々
裸
(
はだか
)
になれないのでしょうね。
そして、それを
師匠
(
ししょう
)
に見抜かれるのが恐ろしいから
師家
(
しけ
)
の部屋に入るのは恐ろしいのでしょう。
ある先生が言われました。
「現代人は、他人が見ていなければ、何を仕出かすかわからない。心のブレーキが欠けている。
仏壇
(
ぶつだん
)
にお参りしなくなった。
だから、自分を照らす
智慧
(
ちえ
)
の
灯火
(
ともしび
)
を持っていない。《と。
「南無阿弥陀仏の
六字
(
ろくじ
)
の
縄
(
なわ
)
に
縛
(
しば
)
られて、思いのままにならぬ嬉しさ。《
と歌われた方もおられます。
「自分勝手に好き勝手に欲望のままに生きたいのだけれど、仏様に縛られて、思いのままになれない。《
という味わいでしょうか?
人間は自分でも、どこかで「自分でもどうしようもない人間だなあー。《という気持ちを持っているのではないでしょうか?
煩悩
(
ぼんのう
)
を抱えて悩む
凡夫
(
ぼんぶ
)
であることには違いはないのですが、そこに仏様の願いが働くから、 「いや、こんなことではいけない。《と
軌道修正
(
きどうしゅうせい
)
をさせて頂けるのではないでしょうか。
そのためには、まずは形から入るということも必要なのでしょう。
それが
仏壇
(
ぶつだん
)
に参る習慣をつけるということではないでしょうか。
仏壇
(
ぶつだん
)
とは 「
ご本尊
(
ごほんぞん
)
を
安置
(
あんち
)
するところ《と教えられています。
つまり、自分の心の中に、
ご本尊
(
ごほんぞん
)
を頂いた生活をするという意味です。
「誰れも見ていなくても、今・阿弥陀様が見ておられるぞ。《ということが、自分中心の自我の生活の中に入ってくると言う事ですね。
ほっといたら、どこまでも自分中心のままに、自我を主張して、
どこまでも
転落
(
てんらく
)
していくしかないのではないか。
それを「
流転
(
るてん
)
《とか 「迷いの世界を
輪廻
(
りんね
)
する《というのではないでしょうか。
そこで、「人間は何のために生まれて来たのか?ただ自我の欲望のままに、刹那的な快楽に生きる為に生きているのか?《
色々な疑問が湧いてきます。
仏法では「仏に成る《ということを説かれています。
自分が「仏に成る《ということを目標として、初めて「仏道に立つ《ということが成り立つのでしょう。
日々
迷
(
まよ
)
いに振り回されて、
煩悩
(
ぼんのう
)
に振り回されている私が、「仏に成る《なんて言うのも、 恥ずかしい気がしますが、これは、私の願いというよりも、「仏様の願い《なのです。
「涅槃経《 に
『
諸行無常
(
しょぎょうむじょう
)
是生滅法
(
ぜしょうめっほう
)
生滅滅己
(
しょうめつめっち
)
寂滅為楽
(
じゃくめついらく
)
』とあります。
『諸行は無常なり 是れ生滅の法 生と滅を滅っし おわって 寂滅を楽しみと為す』
と読みます。
諸行無常→「すべての存在は移り変わる《
是生滅法→「是がこの生滅する世界の法である《
生滅滅已→「生滅へのとらわれを滅し尽くして《
寂滅為楽→「寂滅をもって楽と為す《
「『雪山偈』【「無常偈《】
釈尊が過去世の因縁の物語の中で、一人の修行者が、雪山【ヒマラヤ】で修行していました。
その真摯な態度に感動した帝釈天【仏法の守護神】は、鬼の姿に身を変えて修行者の前に現われました。
そして「諸行無常なり、是れ生滅の法なり《と「雪山偈《の半分を教えました。
修行者はこの真理の二句を聞いて大いに驚いて歓喜して、あたりを見回しましたが、人影はありませんでした。
そして、そこには恐ろしい姿の鬼が立っていました。
修行者は鬼に「今の言葉はお前が言ったのか《と言うと「そうだ《と言いました。
修行者は「今の句は真理を説いてはいるが、後の句が説かれていない。
知っているのなら、是非とも続きを教えてほしい。《と言いました。
鬼は「続きも知っているが、腹がへって続きを教えることができません。《と言いました。
修行者は「それではあなたの食べ物を私が探してきましょう。一体何が食べたいのですか?《と聞いたところ、「人間の血と肉を食べたい《と言いました。
修行者は、真理を求めるために命を捨てる覚悟をして
「それでは、私の身体をあげるから続きを教えてほしい《と言いました。
鬼は「生滅を滅し終わって、寂滅をもって楽となす《の言葉を教えました。
修行者はこれを聞いて驚喜して、後世の人の為に四句を岩に刻み、谷底に身を投じました。
その瞬間に鬼は帝釈天の姿になって、修行者の身体を受けとめて、礼拝しました。
この修行者というのが前世で修行している時の釈尊であった、というのです。
この「無常偈《は、修行中の釈尊を雪山童子と言いましたので、「雪山偈《ともいいます。
「半偈を聞く為に身を捨てる。《この言葉に「聞法《「教えを聞くこと《の厳しさを教えられます。
又、ここに、「生滅の法は苦である《とありますが、「生滅するから苦なのではなくて、生滅する存在であるのに、 それを常住なものであると観るから苦が生じるのである。《と説かれるところに、仏教の基本的立場があるようです。
「いろは歌《は、この
偈
(
げ
)
を
詠
(
よ
)
んだものであると言われています。
「いろはにほへどちりぬるを《→「諸行無常《
→「花は咲き乱れていても、やがて散ってしまうように、人にも寿命があり、すべての存在は移り変わる《
「わがよたれぞつねならむ《→「是生滅法《
→「我が世と春を謳歌していても、月日の経つのは早いもの。《
「うゐのおくやまけふこえて《→「生滅滅己《
→「うゐ→有為とは「作られたもの《という意味。《
「あさきゆめみじゑひもせず《→「寂滅為楽《
→「浅い夢のようなものであり、酔っぱらっていたようなもの。《
「寂滅《とは「我が滅し、煩悩の火が吹き消えた状態《で、「悟りの境地《をいいます。 「こだわり《や、「とらわれ《の心がなくなった状態です。《
【※「雪山偈《等に関して、色々な仏教書等を参考にさせて記述させて頂きました。有難うございました。合掌】
「
正信偈
(
しょうしんげ
)
《の中に次のような言葉があります。
「
速入寂静無為楽
(
そくにゅうじゃくじょうむいらく
)
必以信心為能
(
ひっちしんじんいのうにゅう
)
《
「すみやかに
寂静無為
(
じゃくじょうむい
)
の楽に入ることは かならず信心をもつて
能入
(
のうにゅう
)
とすといえり《
と読みます。
【さとりの国に うまるるは ただ信心に きわまりぬ】
という意訳になります。
ここに、 『
寂静無為
(
じゃくじょうむい
)
の楽に入る』とあります。
「雪山偈《【「無常偈《】と合わせて味わえば、真宗の教えとの関係が明らかになりますね。
しかし、「
寂静
(
じゃくじょう
)
に入る《などと言われたら、 何か淋しくなりませんか?
しかし、私は 「
寂静無為
(
じゃくじょうむい
)
の楽に入る《と「楽に入る《とあることに気づきました。
煩悩
(
ぼんのう
)
は、「騒がしいこと《を好むような気がします。
少しも落ち着きがなくて、次から次に、「凡夫を惑わして、駆けり去る《ようなものが「煩悩《なのかも知れません。
しかし、ここに、阿弥陀様の教えのご縁を頂いた私は、煩悩の楽しみしか知らない私が、 「
寂静無為
(
じゃくじょうむい
)
の楽に入る《という世界を与えられたような気がしました。
阿弥陀如来は、「生きとし生くる全てのものを、必ず救うという《という誓いを建てられました。
「もし救われないものがいたならば、私は仏とならない《という、「先手のお救い《であります。
「もし救われないものがいたならば、私は仏とならない《「もし救われないものがいたならば、私は仏とならない《
と日々、私に迫りくるのであります。
私の側に条件をつけずに、必ず救うという親様でありました。
今、南無阿弥陀仏のお念仏のいわれを聞かせて頂いている、私たちは、今、阿弥陀様の救いの御手の中にあるのでありました。
人生には色々なことが起こりますよね。平穏にはいかないですよね。
苦しい最中にいる時も、いつも私に向かって働きかけてくる働きが、いつも声の仏様、南無阿弥陀仏のお念仏となり、今、ここに、 至り届いているのでありました。
ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称吊
最後に 「人生のほほえみ《【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「遇えてよかったネ《
なかなか
遇えることじゃないのに
あなた に
遇えて よかった
あえて よかったネ
大事なことを
いのちの 輝きを
教えて下さって
ありがとう
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え《の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い《
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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