朝事あさじ・住職の法話

平成24年6月「仏様の力を聞く」


先日親戚の法事に参りました。

その時の法話に

『この世は無常ですから変わらないままでいることは出来ない全ては変わっていきます。

しかし、私たちは、いずれお浄土で再び会うことが出来ます。

しかし、それには、今、名号のいわれをよくよく聞かせて頂いていることが大切です。』

というような意味のことを話して下さいました。


蓮如上人のお言葉にも、

「声のうちなる往生を遠しと人の思うらん」

と南無阿弥陀仏のうちなる往生を遠くに考えていると

戒められています。

それでは南無阿弥陀仏という名号とは一体どういうものなのでしょうか。

如来様の智慧と慈悲を備えた働きそのものだと言われています。

「仏様には他人がいない、全て自己として感じられる」

と聞いたことがあります。

それはちょうど私たちが自分の指を切ったとします、

その時には、他人行儀に眺めたり、恩着せがましく、

「助けてやろう」なんて、思ったりしないで、

すぐに無意識のうちに、手当てをします。

それと同じように仏様は我々を自分と一つに見ておられるというのです。

「ほっていておくれと言われても、ほっておかれぬ親心、どうぞ私に助けさせておくれ」

と味わわれた方もおられます。

私たちはもったいないことに

常にそういう仏様の慈悲の中に抱かれているということです。

気付こうが気付くまいが、仏様は私たちのことを救おうと

無意識のうちに自然と働き続けておられるので、

そのいわれをよくよく聞かせていただかなければ、

せっかくの如来様の尊い救いの働きに気付かないままで、終わってしまいます。

それではせっかく人間の境涯に生れさせて頂いたのに、惜しいです。

人間に生れることは難しい、仏法を聞くことは難しい、

もし、仏法を聞くご縁に恵まれたのであれば、

火の中をかきわけてでも聞かせて頂きなさい、

と先徳の方々はみんな言われています。

最近、私の近所の方々も相次いで亡くなられるということがございました。

淋しいことです。

無常なる人生で仏法の聞ける人間に生れさせて頂いている意味を

亡き方々に導かれながら、考えたいものです。

無常なる人生なるがゆえに生きる尊さがあり、

無常なる命の中に無量寿の仏様の命の全体が入り満ち働いておられるのだ

と先徳は説いておられます。

「人間の命は、外から見ると長い短いがあるけれど、内に感じる時は無限の深さがある」

と味わわれた方もおられます。

私は、これはお念仏に出会われた方の言葉だと味わっています。

名号とは仏様そのものなのです。

みなさんの称えられる念仏の声も、私には仏様に聞こえる時があります。

「そこに仏様がおられる、働かれている、そばに仏様がついておられるのだなあ。」

と感じる時がございます。

「仏様は、浄土から南無阿弥陀仏となって私の元にご出張」

と味わわれた方もございます。

仏さまはすべてのものを救いたいと

南無阿弥陀仏という名号を完成されました。

仏様は真実と虚偽との見分けもつかなくて、

迷っているものの為に名号による救いを選びとられた

と説かれています。

なぜ名号による救いを選びとられたのかは

仏様でなければ分からない世界のことではありますが、

我々は五感といいまして、眼・鼻・耳・舌・身・意というものがありますのに、

どうして名号による救いを選びとられたのでしょうか。

それはおそらく我々の眼で見たと言いましても、

あてにならないからではないでしょうか。

信用できないいい加減であるからではないでしょうか。

そういう凡夫のあてにならない五感をあてにするような救いではなく、

名号による救いというものを選びとられた意味を

深く聞かせていただかなければなりません。

覚如上人の書かれた「報恩講式」という書物の中に

「至心信楽己れを忘れて、無行不成の願海に帰す」

という言葉がございます。

「無行不成」とは、

「行として成らざること無し」

ということで、

どういう意味かといいますと、

「私たちが仏様と成るための行が欠けめなく用意されている」

という意味です。

そういう仏様の働きがいかに偉大なものであるか、

その名号の意味をよくよく聞かせていただくことが

「名号の意味を聞く。名号のいわれを聞く」

ということになります。

それを

「聞其名号(もんごみょうごう)信心歓喜(しんじんかんぎ)」

といいます。

お互いに仏法聴聞して、聞かせて頂きましょう。

ただ仏様が助けて下さると安易に考え、

自分の自我の浅ましい姿をまったく反省することもないのも

おかしなことです。

真宗の信心は

「二種深信(にしゅじんしん)」

と言いまして、

自分の浅ましい罪の姿を反省することと、

仏様の力を讃える・仏徳讃嘆(ぶっとくさんだん)とが

一つになったものが信心の内容だと説かれています。

自分勝手な都合のいいような聞き方をしては

親鸞聖人に対して申し訳ないことです。

親鸞さまのおかげで私たちはこういう尊いみ教えを聞く人が出来るわけですよね。

親鸞さまのご恩は大きいと感謝させて頂きたいものです。

覚如上人も

「真宗興行の徳」

として親鸞さまのお徳を讃えておられます。

それでも、日々の私たちの生活とは、 どういう心の生活でしょうか?

「わが身が一番かわいい」

という心が無くならない私たちではないでしょうか。

口で言うことと実際に行うことが違っている私ではないでしょうか。

ただ単に仏様がありがたいと言って自分の反省がなく

自分のお粗末な姿に全然気付かない信心もおかしい信心です。

自分のどうしようもなさ、仏様に成ることについて、

まったく何の力も徳もないお粗末な空っぽな私の姿を反省させて頂き、

そういうお粗末な私に常に働きかけて下さっておられる

偉大なる如来様の救いの働きを名号の中に日々感じ、

感謝とザンギのお念仏生活

をさせて頂いたいものです。

その基本はどこまでも、

「共に、仏法を聞かせていただく。」

このことにつきるのではないでしょうか。

一緒に聞かせていただき、

共に、浄土への道を 歩ませて頂きましょう。

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。





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