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平成30年4月
第78話
朝事*
住職の法話
「
仏
(
ほとけ
)
さまが見ている《
4月になり、学校では新学期が始まり、会社でも新入社員が働き始めるなど、節目の月ですね。
また、桜の花がとてもきれいで、各地で「花見《などもあります。
花は無我ですね。「私が《というものがないみたいですね。
「私はきれいでしょう。《と威張ることはないみたいですね。
もし、威張ったら嫌になるかも知れませんね。
しかし、花は「私を見て。《と言っているような気もします。
私たちが花を見て「ああきれいだなあー。《と感じてくれるのは花も喜ぶのではないでしょうか。
花にも「こころ《というものがあるのだそうですね。きっとそうでしょうねえ。
しかし、花は誰も「咲け。《と言わなくても、毎年、季節が来ると自然と咲くから上思議ですね。
「自然《の力は偉大ですね。
花の無我の美しさを思うにつけても、自分の
煩悩
(
ぼんのう
)
の
醜
(
みにく
)
さを思わずにはおれません。
ある方が、「政治家に必要な大切な条件に、 『使命感』『責任感』と共に、『
虚栄心
(
きょえいしん
)
のないこと』が大切である。《 と言われているそうです。
政治家に限らず、何か仕事を成し遂げていくには、
虚栄心
(
きょえいしん
)
は邪魔になるものでしょうねえ。
しかし、
煩悩
(
ぼんのう
)
を一杯持っている
凡夫
(
ぼんぶ
)
としては、
虚栄心
(
きょえいしん
)
一つが自分でどうにもならないものではないでしょうか?
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
も、 「
愛欲
(
あいよく
)
や
吊誉心
(
めいよしん
)
や自分を利する心から、離れられない。《と
懺悔
(
ざんげ
)
しておられます。
「
愛欲
(
あいよく
)
の
広海
(
こうかい
)
《→「愛欲は広い海のようである《
「
吊利
(
みょうり
)
の
大山
(
だいせん
)
《→「吊誉心は大きな山のようである《
と
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
は表現されています。
愛欲の煩悩の大きさを「広海《にたとえ、吊誉欲の大きさを「大山《にたとえて説いておられます。
このように、仏教では『
比喩
(
ひゆ
)
』【たとえ】という表現が多くあります。
真実というものは、中々表現出来ないという言葉の限界もあるのかも知れません。
また、仏教の伝統の中に、「海《の
比喩
(
ひゆ
)
を使うということがあるのだそうです。
また、
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
は 日本海の海を身をもって体験しておられるということもあるのでしょう。
また、ある先生は言われました。
『人生の全ては
阿弥陀如来
(
あみだにょらい
)
の
本願
(
ほんがん
)
に出会うところに意義がある。
阿弥陀如来
(
あみだにょらい
)
の
本願
(
ほんがん
)
に出会うことが人生の大きな意義である。
だから、
阿弥陀如来
(
あみだにょらい
)
の
本願
(
ほんがん
)
に出会えば、どんな人生の中にも、深い意義が感ぜられる。
だから、人生におけるどんなものも、
本願
(
ほんがん
)
をたとえる
比喩
(
ひゆ
)
になるのです。』と。
比喩
(
ひゆ
)
というと簡単に考えがちですが、 表現の仕方が『
比喩
(
ひゆ
)
』【たとえ】という表現なだけで、言わんとされていることは、
「
比喩
(
ひゆ
)
以上の現実そのもの《と味わわなければならなかったのだと反省しています。
私は、「これは
比喩
(
ひゆ
)
【たとえ】なんだ。《と 軽く思っていたし、自分自身の問題としていなかったから、 「あれは『
比喩
(
ひゆ
)
』だ。《という態度で済ませていたんだと反省しています。
「あれは『
比喩
(
ひゆ
)
』だ。《で済む問題ではなく、私の現実の姿を言われているのでした。
仏教の目的は、 「
執着
(
しゅうちゃく
)
を離れること《だそうです。
「
執着
(
しゅうちゃく
)
を離れること《が幸福なんだそうです。
「
執着
(
しゅうちゃく
)
《に泣いているのが
凡夫
(
ぼんぶ
)
の私です。 あらゆることに
執着
(
しゅうちゃく
)
しているのが
凡夫
(
ぼんぶ
)
の私です。
欲望というものはキリがないそうです。
仏教
(
ぶっきょう
)
の言葉の中にも、
「
貨幣
(
かへい
)
の雨を降らせても、 人の欲望は満足しない。《「塩水を飲んでも、益々喉が渇くようなもの《
という意味の言葉が説かれています。
「一を得たら、二を!二を得たら、三を!三を得たら、四を!四を得たら、五を!五はを得たら、六を!!《
「まことに、難むつかしの世です。《
大体、自分が得る資格がないことを望んでいることが多いのではないでしょうか?
たとえば、自分は、その人のことを嫌っているのに、その人からは、優しく親切にしてほしいと願ったりしていることがないでしょうか?
また、「他人は自分を幸せにする為にある《と勘違いしていることはありませんか?
これは、とても子供じみた考え方ではないでしょうか?
神経症的な発想だと思います。
多くは、問題はその人自身にあるのであって、他人の責任ではないはずです。
「他人は自分を幸せにするためにある《という考え方は「他人は自分の欲を満たす為の道具だ《という考え方ではないでしょうか?
そこには、他人に対する敬意や敬いというものが全く欠けていると思います。
誰しもあるがままの自分の人生を生き切る為に存在しているのではないでしょうか?
そこに、一人一人が尊厳を持ち、互いに他人の人生を尊び、共に、助け合って生きていこう、という気持ちが自然と起きるものではないでしょうか?
最初から、他人を見下げて、敬わず、尊ばず、その人自身のあるがままを押し殺させて、 他人の為に尽くす義務は人間にはないと思いますが?
先ず自分自身を本当に大切にすることが大事ではないでしょうか?
自分自身を大切に出来ていない人は他人を粗末に扱うようです。
自分自身を本当に大切にする為にも、「仏法を聴聞すること《を大切にさせていただきたいと思う次第です。
「執着を離れること《が仏法の目的であり、「執着を離れることが幸福《ですが、、、。
しかし「
執着
(
しゅうちゃく
)
を離れなければならない。《 ということは理解できましても、 「
執着
(
しゅうちゃく
)
を離れよう。《とすることも 「
執着
(
しゅうちゃく
)
《になるそうですね。
ちょうど
真宗
(
しんしゅう
)
の教えでは、 「
自力
(
じりき
)
のはからいがいけない。《と言いますが、 「
自力
(
じりき
)
のはからい《を取ろうとすることも 「
自力
(
じりき
)
のはからい《ということになったりするみたいですね。
こうなると、全く「手も足もでない。《という感じがしますね。
「
一斗枡
(
いっとます
)
の中の エビじゃこ《のようなものですね。
【
一斗枡
(
いっとます
)
→1斗の容量をはかる枡。斗枡(とます)。】
「
正信偈
(
しょうしんげ
)
《【親鸞聖人】の中に次のような一節があります。
(偈文)
「
如来
(
にょらい
)
、
世
(
よ
)
に
興出
(
こうしゅつ
)
したまふゆえは、 ただ
弥陀
(
みだ
)
の
本願海
(
ほんがんかい
)
を 説とかんとなり、
五濁悪時
(
ごじょくあくじ
)
の
群生海
(
ぐんじょうかい
)
、
如来如実
(
にょらいにょじつ
)
の
言
(
み
)
ことを 信しんずべし。 《
お
釈迦
(
しゃか
)
さまがこの世にお出ましになった 目的は、
阿弥陀如来
(
あみだにょらい
)
の
本願
(
ほんがん
)
を説くためだったと
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
はおっしゃっています。
阿弥陀如来
(
あみだにょらい
)
の
本願
(
ほんがん
)
は、
煩悩
(
ぼんのう
)
のために苦しむ悩む人びとを救う教えです。
阿弥陀如来
(
あみだにょらい
)
の救いの道こそ、
煩悩
(
ぼんのう
)
のために苦しむ私たちのために開かれた、 ただひとつの救いの道だったのです。
だから、そこのところを
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
は 「
五濁悪時
(
ごじょくあくじ
)
の
群生海
(
ぐんじょうかい
)
、
如来如実
(
にょらいにょじつ
)
の
言
(
み
)
ことを 信しんずべし。 《と言われたのです。
阿弥陀
(
あみだ
)
さまは、私たちの
煩悩
(
ぼんのう
)
に
迷
(
まよ
)
う
姿
(
すがた
)
を ご
覧
(
らん
)
になられ、 「
如来如実
(
にょらいにょじつ
)
の
言
(
み
)
ことを 信しんずべし。 《と呼び掛けておられるのです。
私の
煩悩
(
ぼんのう
)
を見つめ、 「どうすれば、この
煩悩
(
ぼんのう
)
だらけの
凡夫
(
ぼんぶ
)
を
救
(
すく
)
うことが出来るのだろうか?《と 「私の救い《を問題にして下さっていたのは、私ではなくて、
阿弥陀
(
あみだ
)
さまの方なのでした。
凡聖逆謗斉廻入 凡・聖・逆・謗斉しく廻入すれば、 如衆水入海一味 衆水の海に入りて一味なるが如し
「
正信偈
(
しょうしんげ
)
《【親鸞聖人】の中に次のような一節があります。
(偈文)
「
凡聖
(
ぼんしょう
)
、
逆謗
(
ぎゃくほう
)
斉
(
ひと
)
しく
回入
(
えにゅう
)
すれば、
衆水海
(
しゅうしいうみ
)
に
入
(
い
)
りて
一味
(
いちみ
)
なるがごとし。 《
海には多くの川の水が流れ込んできます。
どの川の水も真水です。
それが海に流れ込みますと、
全部同一
(
ぜんぶどういつ
)
の塩水になってしまいます。
この
道理
(
どうり
)
と同じように、どのような
極悪
(
ごくあく
)
の人でも、 修行の徳を積んでいない
凡夫
(
ぼんぶ
)
でも、 徳高く
智慧
(
ちえ
)
すぐれた
聖者
(
せいじゃ
)
も、
老少善悪
(
ろうしょうぜんあく
)
を問わず、
本願
(
ほんがん
)
を信ずる人は、 わけへだてなく、
一味平等
(
いちみびょうどう
)
に
仏
(
ほとけ
)
の
功徳
(
くどく
)
、
智慧
(
ちえ
)
をいただくのです。
たとえ教えをそしっていた人であっても、心を転じて
本願
(
ほんがん
)
を信ずるようになったならば、平等にお救いにあずかるのです。
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
は、 『
教行信証
(
きょうぎょうしんしょう
)
』
「
行文類
(
ぎょうもんるい
)
《の中に、 「海《というたとえを、自ら解釈しておられます。
「海《という語は、「静止した世界ではなく、動きがあり、はたらきがある《ということが言われています。
『「海《といふは、
久遠
(
くおん
)
よりこのかた
凡聖所修
(
ぼんしょうしょしゅう
)
の
雑修・雑善
(
ざっしゅ・ぞうぜん
)
の 川水を
転
(
てん
)
じ、
逆謗闡提・恒沙無明
(
ぎゃくほうせんだい・ごうじゃまんどく
)
の
海水
(
かいすい
)
を転じて、
本願大悲智慧真実・恒沙万徳
(
ほんがんだいひちえしんじつ・ごうじゃまんどく
)
の
大宝海水
(
だいほうかいすい
)
と成る。
これを海のごときに
喩
(
たと
)
ふるなり。』
【意訳】
『
凡夫
(
ぼんぶ
)
や
聖者
(
せいじゃ
)
が自力で修めた善や、
五逆
(
ごぎゃく
)
→【父を殺し・母を殺し・
阿羅漢
(
あらかん
)
を殺し・
仏身
(
ぶっしん
)
より血を出す・
和合僧
(
わごうそう
)
を破る】
・謗法【仏教をそしる、正しい真理をないがしろにすること】
・一闡提【信上具足で、世俗の快楽を追求するだけで正法を信じず、悟りを求める心がなく成仏することが出来ない衆生のこと】
などの
無明
(
むみょう
)
の水が転じられ、
本願
(
ほんがん
)
の
慈悲
(
じひ
)
と
智恵
(
ちえ
)
の 限りない
功徳
(
くどく
)
の
海水
(
かいすい
)
に成る』
このように
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
は「海《というたとえを自ら解釈しておられます。
日々
煩悩
(
ぼんのう
)
のために
苦悩
(
くのう
)
している私ですが、 このような
凡夫
(
ぼんぶ
)
を
救
(
すく
)
う
阿弥陀仏
(
あみだぶつ
)
の
智恵
(
ちえ
)
慈悲
(
じひ
)
の
働
(
はたら
)
きが 南無阿弥陀仏の六字の
吊号
(
みょうごう
)
として、 いつでも、どこでも、この私に届いていることを味わわせていただきたいものです。
いくら教えを聞きましても、中々 自己中心的な
煩悩
(
ぼんのう
)
から離れられない私ですが、 そういう私の姿に悲しみをもって見ていてくださるであろう
阿弥陀仏
(
あみだぶつ
)
の心を支えに精一杯生きていきたいものです。
ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称吊
最後に 「人生のほほえみ《【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「与える《
物があれば ものを
力や知識があれば それを
みんなに 与えよう
何も 持っていなくても
ほほえみや やさしさを
あたたかな ことばを
みんなに 与えよう
心から おととげしよう
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え《の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い《
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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