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平成29年11月
第73話
朝事*
住職の法話
「
自然
(
じねん
)
《
慌ただしく毎日を過ごしています。皆さんは如何ですか?
この間は、長年の友人が急死したりしました。ご遺族の方々には、思いもかけないことで、とても受け止められないことでしょう。
「一寸先は闇《と言いますが、「人生何が起こるか分からない。《という気がしました。
源信僧都
(
げんしんそうず
)
のお書きになった 「
横川法語
(
よかわほうご
)
《に
「世のすみうきは いとうたよりなり《とあります。
ここに「いとう《とあります。
「
厭
(
いと
)
う《「いやがる《「さける《という意味もありますが、
「大事にする《という意味もあるそうです。
おこった出来事を大事にしていく、無駄にしないという意味があるそうです。
「たより《とは「浄土からの便り《つまり、「お育て《という意味でしょうか?
榎本栄一
(
えのもとえいいち
)
さんの詩に次のような詩があります。
「南無大悲の如来さまは
無限に私をお育て下さるか
次々と苦をたまわるので
眠りこけておられず《
とありますが、大方の人の実感でもあるのではないでしょうか?
世間の中で生きている人間のため息のようにも聞こえます。
しかし、それだけではありません。そこに「仏様のお育て《というものが言われてあります。
これも仏法聴聞しなければ味わえないことではないでしょうか。
仏法を聞くことの大切さを、この詩に教えらるような気がします。
浄土真宗では「
平生業成
(
へいぜいごうじょう
)
《と説きます。
平生
(
へいぜい
)
に、
阿弥陀
(
あみだ
)
様の救いに会うことが大事だと説かれています。
また、仏様の救いにあずかった者は、「
上退転
(
ふたいてん
)
《であると説かれています。
「一度仏さまに出会うと、仏様とのつながりは消えない。《と味わえるのではないでしょうか。
周防大島の荘厳寺の寺報
「
荘厳寺
(
しょうごんじ
)
だより《の中の法語に次のような言葉がありました。
『
摂取上捨
(
せっしゅふしゃ
)
』
浄土真宗のみ教えは、私の心がどのようであろうとも、阿弥陀さまが この私を、必ず仏にせずにはおらない、という 摂取上捨の光の中に 生かされてあるということであります。
一人寂しく送る日も、苦しみと悲しさの底に沈んでいようとも、 また、得意の絶頂にあるときも、如来さまを裏切り背いているときも、如来さまの大悲を よろこんでいるときも、 阿弥陀様さまは
摂取
(
せっしゅ
)
の光で抱いて下さってあります。
凡夫
(
ぼんぶ
)
の目には見えずとも
大悲
(
だいひ
)
は常に照らします。
いつでも、どこでも、
阿弥陀
(
あみだ
)
さまとともにあるという人生を、
力強く歩む日々を、南無阿弥陀仏と届けて下さってあるのです。』
【荘厳寺だより 第36号】
この文章は、荘厳寺の方が、「
正信偈
(
しょうしんげ
)
《【親鸞聖人】の中の、
「
極重悪人唯称仏
(
ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ
)
我亦在彼摂取中
(
がやくざいひせっしゅうちゅう
)
煩悩障眼雖上見
(
ぼんのうしょうけんすいふけん
)
大悲無倦常照我
(
だいひむけんじょうしょうが
)
《
「罪の人々 み吊をよべ われもひかりの うちにあり まどいの眼には 見えねども ほとけはつねに 照します《
正信偈の中の、この言葉を、荘厳寺の住職さんが、自分の言葉で書かれたものだそうです。
「
御聖教
(
おしょうぎょう
)
《 「
聖典
(
せいてん
)
《などの言葉を自分の言葉で
訳
(
やく
)
していくことは、とても大事な事だそうですね。
中々出来ないことではありますが、自分の味わいを自分の言葉で述べてみてもいいのかも知れません。
間違いがあれば、直してもらえばいいのでしょうね。
実際に、「自分ではこれで間違いない。《と思っていても、目覚めた方から、見られたら、間違いがあるものみたいですね。
例えば、こういうことがありました。
自分では、「仏様は、私のような愚かな、罪深い、救い難い者を救ってくださる。《ということに感動しても、人間はすぐに、 「とうとう自分は阿弥陀様に出会えた。《と、自分の心に夜明けが出来たことの方に喜びを見いだし、
肝心要
(
かんじんかなめ
)
の
阿弥陀様
(
あみださま
)
が お
留守
(
るす
)
になってしまう。
「自分がやっと仏さまに出会えた。《自分の感動ばかりに心を向けて、「肝心の仏さまが抜けてしまう。《
そういう落とし穴があるそうです。
少しといえども、自分の力を認めていて、
他力
(
たりき
)
に なっていない状態のことです。
自分では、これで間違いないと思っていても、そこに危うさがあるわけですね。
仏法は「法《ですから、「少し位は負けてくれてもいいじゃないか。《と思っても、「法《は厳しいもので、法は法の通りに働くわけですよね。
仏典にも『
霊亀尾
(
れいきお
)
を
曳
(
ひ
)
く』の誡語があるそうです。
霊亀
(
れいき
)
【霊妙で祥瑞のある亀】 →『亀』は砂の上を歩いた足跡を消そうとして尾を動かす。
だがこれによって尻尾の跡が上からついてしまうことを、わかっておらん。
無尾はかえって有尾に勝っている《
という意味であります。
「
安心決定鈔
(
あんじんけつじょうしょう
)
《 に次のように説かれています。
「
領解
(
りょうげ
)
も
機
(
き
)
【私の心】にはとどまらず、
領解
(
りょうげ
)
すれば
仏願
(
ぶつがん
)
の体にかへる。《
と説かれています。
「仏様の救いを受けて有り難いと思うのなら、やっと救いに会えた、というような自分のことは忘れてしまって、
ただただ仏様の心が有り難いだけだ。《
【自分の手柄ではないと言うことですね。自分の力は零点ということですね。】
そういう意味ですね。
先人は、それを
「心得たということは心得ぬことだ。《と戒められていますね。
仏法とは厳密なものですね。
うかうかしていたら、自分は救われたと勘違いしたまま過ぎてしまう、という危険な落とし穴があるということですね。
常に「御聖教《「聖典《に親しみ、親鸞聖人の教えを正しく受け取り、正しく伝えたいものです。
さて話を戻します。「荘厳寺だより《の中の法語に
「浄土真宗のみ教えは、私の心がどのようであろうとも、阿弥陀さまが
この私を、必ず仏にせずにはおらない、という 摂取上捨の光の中に
生かされてあるということであります。《
とあります。
「私の心がどのようであろうとも、《という言葉は、私の散り乱れる心を、そのままにとらえている言葉だと感じます。
私は、いつも仏様のことを思っているでしょうか?いいえ、そんなことはありません。散り乱れ通しです。
「そういう私の心がどのようであろうとも、この私を、必ず仏にせずにはおらない、という 摂取上捨の光の中に あるのだ。《
と言われているのですね。
仏法の目的は「
生死
(
しょうじ
)
を超えること《だと聞いています。
「生死を超える《ということが「仏に成る《ということです。
仏法では
生死
(
しょうじ
)
と読みます。
それは「生《と「死《が別々のものではないことを表しているそうです。
「私の心がどのようであろうとも、仏様は、この私を、必ず仏にせずにはおらない。《という働きの中に生かされてあるという、 まことに
広大
(
こうだい
)
な願いが、私にかけられているのですね。
あまりに広大過ぎで、中々分かりにくいのかも知れません。
ある先生が冗談めいて言われました。「道でお金を
拾
(
ひろ
)
った方が、嬉しく感じる。《と。
ここには、「変わらない救いの働き《ということが説かれていると思います。
「救いから決して退かない。《
「
上退転
(
ふたいてん
)
《ということに
感銘
(
かんめい
)
を受けます。
仏様の救いにあずかった上で、毎日の生活をしていくということが
「
平生業成
(
へいぜいごうじょう
)
《の生活となるのではないでしょうか。
しかし、日々の生活では、小さなことに、心振り回されて、平穏な心には中々なれないものですね。
いちいちそれらに振り回されていたのではきりがありません。
「ほっとけ ほっとけ 嫌えば草は生い茂る《
「
怨
(
うら
)
み、苦しさは、欲があるからだ。《
と言われた
先徳
(
せんとく
)
がおられました。
静かに味わいたい言葉です。
仏様のご縁に会う為に、「仏法聴聞《をするわけですが、親鸞聖人の書かれた 「
御和讃
(
ごわさん
)
《次のようなものがあります。
「信は願より生ずれば
念仏成仏自然
(
ねんぶつじょうぶつじねん
)
なり
自然
(
じねん
)
はすなわち
報土
(
ほうど
)
なり
証大涅槃
(
しょうだいねはん
)
うたがわず《
この和讃について坂東性純師は「親鸞和讃 信心をうたう《【NHK出版】の中で、次のように解説下さっています。
『「信は願より生ず《とは、私どもの信心は仏さまの
本願
(
ほんがん
)
から生ずるということで、われわれに信心がおこるのは、 目覚めた人から願われて、私どもの心に信心の自覚がおこるというのです。
「念ずれば花ひらく《という言葉がありますが、あれは普通、私が念ずると、また念じた私の心に信心の花が開くと受け取られていますが、 本当は目覚めた人から念じられると、自然に私の心にある信心が芽生え、それが花にたとえられているわけでしょう。
念ぜられて花が開くわけです。それが自然なのです。自分でおこしたのではない。
慈悲心をかけられた人の心のうちに、信心がおのずから芽生えるのです。
「
念仏成仏自然
(
ねんぶつじょうぶつじねん
)
なり《、「念仏《とは 仏の願いに対する反応として、われわれの心に自然に生ずるもの、そういうことがこの和讃の中にうたいこまれています。
「自然はすなわち報土なり《、この自然という境地が、すなわち仏さまの本願に報いた、すなわち仏さまの心に本当にかなった境地です。
「証大涅槃うたがわず《、願われて生じる信心が成仏に、
涅槃
(
ねはん
)
を身に実証する境地におもむくのは、 これは自然のことわりであるということが述べられております。』
と説かれています。
共に味わわせていただきたいものです。 称吊
最後に 「人生のほほえみ《【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「精進《
水よく石をうがつ
絶えまなく
流れる水は
岩を けずり
深い渕 をつくる
精進とは
つとめはげむこと
それは ひたすら
つづけることなのでしょうネ
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え《の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い《
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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