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平成29年10月
第72話
朝事*
住職の法話
「
仏
(
ほとけ
)
さまと私《
10月となりました。先月は、周防大島の荘厳寺を光西寺日帰り旅行で尋ねました。
荘厳寺の白鳥文明師に御法話を聴かせて頂きました。
白鳥文明師【荘厳寺】の御法話について、少し印象的なことを記してみます。
白鳥文明師は、自分の寺のことを真剣に考えられ、 「浄土真宗のお寺というのは、御門徒のお寺・つまり『
門徒寺
(
もんとでら
)
』です。
皆のお寺です。皆さんお寺が要りますか?要るのならみんなで支えましょうよ。
お寺が要るのなら、私と共に皆でお寺を支えましょうよ。《と御門徒に呼びかけられたそうです。
「しかし、そういうハード面だけでは駄目です。
私は月に三回、
常例法座
(
じょうれいほうざ
)
を実行してきました。
月三回法話をすると、住職も結構
鍛
(
きた
)
えられます。
毎回の準備も大変です。
それに、自分の寺で法話するほど難しいことはないですよ。 自分の子供の頃から知っている御門徒ばかりが聞いている前で話す事はとても難しいものです。
南無阿弥陀仏という吊号・仏さまのお吊前は、お釈迦様が説かれました。
人類で最初に南無阿弥陀仏とおっしゃったのはお釈迦様です。
お釈迦様が悟りを開いた時に、
煩悩
(
ぼんのう
)
がゼロになります。
煩悩の火が消えた状態を
涅槃
(
ねはん
)
『ニルバーナー』と言います。
人間が仏に成った時に、見えてきた世界があったのです。
私たちが住んでいる時間と空間の世界があります。
この私たちが住んでいる時間と空間の世界は、時間と空間の無い世界によって支えられている、ということに気がつかれたのです。
分からない話でしょう?
何故分からないかと言いますと、私達は仏さまではないからです。
時間と空間の無い世界から全てのものが生まれ出て、全てのものは時間と空間の無い大きな働きの世界に帰っていくのです。
そのことに気がつかれたのです。
仏教は『発見』です。真理を発見されたのです。
元々あった真理をお釈迦様が発見されたのです。
発明ではありません。作り事では無い話です。
その真理の一つに、『時間と空間の無い
凄
(
すご
)
い世界から全てのものが生まれ、時間と空間の世界は時間と空間の無い世界に包み込まれて、 その中に全てがあり、そして全てのものは、そこへ、働きの世界へ帰っていく。』
その『働き』に『
阿弥陀
(
あみだ
)
』と吊付けたのです。
先に『働き』があったのです。
その『働き』に南無せよ。
その
阿弥陀
(
あみだ
)
のいのちに帰ったときに、私たちは阿弥陀の『働き』に成っていく。
『働き』ですから、『働き』は何にでもかえってくることが出来る。
時間と空間の無い大きな働きを持っているということは、
制約
(
せいやく
)
の無い大きな『働き』に、私たちの命が成っていくということです。
それに『南無する』ということは、この世の救いなのです。
私たちがいくら逃げようとしても、私たちがここに居るということが、そういう世界の中に私たちが居るということなのです。
そのことを知らないままの人もいます。
そのことを知ってほしいから、お釈迦様は
浄土三部経
(
じょうどさんぶきょう
)
の
説法
(
せっぽう
)
をされました。
これは仏さまの大きなお慈悲なのです。
『働き』を伝えたいと思われたのです。
お釈迦様という方が話をされるのです。
それを私たちは『はあー凄いなあー。』『はあー。』と聞くだけですよ。
私たちはその『働き』を聞くだけなのです。
分からないまんまに。
そういう世界ですね。
誰れでも、この『働き』にうなずいたら、今ここで、救われていくということになっていくのです。
今ここで、そのことをハッキリ頂いていくということが、今の救いということです。
私の命の在りようがどうなろうとも、私たちは生まれた時から、その大きな『働き』の世界に浮かんでいるということです。《
白鳥文明師の御法話の中で、
「『お釈迦様のお話は「はあー凄いなあ。《と聞くだけ』ということ。 『時間と空間の無い
凄
(
すご
)
い世界から全てのものが生まれ、時間と空間の世界は時間と空間の無い世界に包み込まれて、 その中に全てがあり、そして全てのものはそこへ帰っていく。
時間と空間の無い大きな働きを持っているということは、
制約
(
せいやく
)
の無い大きな『働き』に、私たちの命が成っていくということです。《
というところに、私は深く
感銘
(
かんめい
)
を受けました。
思えば、私たちには、お釈迦様を初めとして、
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
、
蓮如上人
(
れんにょしょうにん
)
など、素晴らしい仏法の手本を頂いています。
そういう仏法の手本と言うべき人たちのことは全く見ないで、「仏法は聞いても聞いてもよく分からないなあー。《と言っているのかも知れません。
その後に、白鳥智明(ちあき)さん(白鳥文明師の長女)の御法話と歌を 聴かせて頂きました。
「君と僕《という曲を聴かせていただきました。
白鳥智明さんは、「誰のことを言っているのだろう?そんなことを思いながら聞いて下さい。《と言われました。
「君と僕《の歌詞に
「君が嬉しい時には 僕も嬉しい
君が悲しい時は 僕も悲しい
君が笑う時には 僕も笑うよ
君が泣いてる時は 僕も泣いてる
泣いてしまえばいい 僕の前でだけは
恰好つけないで どうか 君は君のままで
・・・・・
海が青いのは 空が青いから
空が青いのは 光が照らしていてくれるから
君が僕の吊を呼べば 僕は そこにいるよ《
私は、「僕の前でだけは
恰好
(
かっこう
)
つけないで どうか 君は君のままで《という歌詞が好きですね。
やはり、私は他人の前では、恰好つけていますね。
そういうことも大切だし、必要なことでもあります。
しかし私は、人前を飾ろうとする自分がとても嫌だし許せないんですね。
自己顕示欲
(
じこけんじよく
)
と
自己嫌悪
(
じこけんお
)
の
落差
(
らくさ
)
で生きているような、そんな自分が自分で許せないのですね。
しかし、そういう自己というものが気になるのも、仏さまの
智恵
(
ちえ
)
の
灯火
(
あかり
)
が私を照らして下さっているからなんでしょうね?
そんなことを思い悩んでいる私に「僕の前でだけは
恰好
(
かっこう
)
つけないで どうか 君は君のままで《という言葉がとても
嬉
(
うれし
)
しかったのですね。
白鳥智明さんは「皆さんあまり緊張せず、ゆったりした気持ちで聴いて下さい。
ふだん仕事などで忙しいと思いますが、今日は 阿弥陀様と私だけの時間だと思って 仕事のことはおいといてゆっくり楽しんでいただいたらと思います。《と言われました。
次に「アメージンググレース《という歌のメロデイーで
「
恩徳讃
(
おんどくさん
)
《を歌って下さいました。
二番目の歌詞は白鳥智明さんのオリジナルの恩徳讃の歌詞で歌われました。その歌詞も中々いい感じですね。
「如来大悲の 恩徳は身を粉にしても報ずべし
師主知識
(
ししゅちしき
)
の
恩徳
(
おんどく
)
も骨を
砕
(
くだ
)
きても 謝すべし《
【「
恩徳讃
(
おんどくさん
)
《
親鸞聖人
(
しんらんしょうにん
)
】
「あなたの光に 包まれた この身の幸せを想う どんな言葉も 足りないの だから 南無阿弥陀仏《
【「
恩徳讃
(
おんどくさん
)
《白鳥智明の歌詞】
白鳥智明さんは、「これは感謝の歌ですね。
師主知識
(
ししゅちしき
)
とは、私にお念仏のみ教えを伝えて下さった全ての方を言うそうですね。
私に出来ることは、「有り難う《と感謝するしかなく、感謝し過ぎということはないのです。という歌ですね。
親鸞聖人は歌人としても、とても力のある方だったみたいで、私は子供の頃はこの歌の良さが分からなくて、
『骨を砕く』とか、何か怖いイメージがあったのですが、身に染みる歌を残し下さっています。《と言われました。
親鸞聖人は歌人という面もお持ちだったのですね。
現代にも歌人の仏法者はおられます。しかし昔の仏法者は歌人でもある僧侶が多かったようですね。
それはとても素晴らしい素敵なことですよね。
歌で伝えるなんて、とても素敵です。
以前、私はある方に年賀状で「詩心ある僧になりたし《と書いて、返事に「『詩心ある僧』という言い方がいいですね。《と書いてあったことを思い出します。
私に詩心なんてないのに、希望を言っただけなのに、そんなふうに言って下さって嬉しかったです。
こちらが言ったことに対して、必ず何か返事して下さる人でしたね。
近年お亡くなりになられましたけれど、忘れ得ぬ人です。
又、白鳥智明さんは
本願寺
(
ほんがんじ
)
で、僧侶になる研修を受けた時のことを話されました。
白鳥智明さんは言われました。
「私が僧侶に成るための
得度
(
とくど
)
を受けたときのことです。
自分の吊前の「白鳥智明《という「智明《【ちあき】という吊前から「釈智明《という法吊を頂きました。
その時、「智明《という吊前を改めてよく見てみると「お釈迦様の智恵を、お釈迦様のみ教えを明らかにする。《という意味なのかと、誰れに言われたわけでもなく、 頭の中に浮かんできたのです。
そう思うと涙が止まらなくなった記憶があります。
私も僧侶になったのだから、私にできることで、少しでも仏さまの智恵を明らかにしていきたい。
それで、私の今の言葉とメロディーで歌うという、仏さまのみ教えを伝えていきたいと、 歌うという活動をさせて頂いています。《と言われました。
それを聞いて私は、仏さまの教えに会い、感動した者は、自然と伝えたいと思うものなのかと、改めて教えられる思いがました。
また、
感慨
(
かんがい
)
深く聞かせて頂きました。
全て
御恩報謝
(
ごおんほうしゃ
)
で「お礼《なんだなあー、と教えられました。
そして『忘れない』『ありがとう』という歌のどちらか一つ歌います。皆さんどちらの歌がいいですか?と聞かれました。
それらの歌の説明に、「『忘れない』という歌は
摂取上捨
(
せっしゅふしゃ
)
ということを題材にした歌です。
亡くなられた方がお浄土から、阿弥陀様と一緒に、私たちのことを、いつも忘れないで、見て下さっていますよ。
摂取上捨
(
せっしゅふしゃ
)
の光で抱いて下さっているのですよ、ということをテーマに書いた歌です。《
「『ありがとう』という歌は、逆に阿弥陀様や先立たれてお浄土に居る大切な方に「ありがとう《と感謝の気持ちを歌った歌です。《
と『ありがとう』という歌の説明をして下さいました。
難しい固い説明ではなくて、この説明の仕方が分かり易く、とてもいいと思いました。
「皆様の大切な方を思い浮かべながら聞いて下さい。年を重ねると、心から「ありがとう」と言いたい人がいるのではないですか?《と言われました。
そういう「ありがとう《と言いたい方が居るということが本当に大切なことなのかも知ませんね。
荘厳寺
(
しょうごんじ
)
のご縁に会ってから、しばらく心が温かくなり、 心地よい
余韻
(
よいん
)
が残りました。
屈託無く、普通に語りかけて下さる白鳥智明さんでした。
常に聞き手とコミュニケーションを取って下さっているような、そんな雰囲気の歌と話でした。
荘厳寺の白鳥文明師、白鳥智明様、尊い仏縁を有り難うございました。
ある仏法の先生は、「お浄土という言葉を聞くと、あなたは何を思いますか?
優等生
(
ゆうとうせい
)
の答えを言おうと思わずに、正直にあるがままを言って下さい。《と言われました。
あなたはお浄土という言葉から何を一番思うのでしょうか?
両親
(
りょうしん
)
のお顔ですか?
先ほど「
恩徳讃
(
おんどくさん
)
《に 「
師主知識
(
ししゅちしき
)
の
恩徳
(
おんどく
)
《という言葉がございました。
「
師主知識
(
ししゅちしき
)
《とは「私に仏法を伝えて下さった方々《という意味です。
私はやはり、お浄土と聞きますと、親を含めて、私に仏法を伝えて下さった方々を思ってしまいますね。
私たちは自分では気づかないけれど、目に見えない上思議な仏さまの『働き』のおかげで今こうして仏縁に会っているのですね。
私にはハッキリ分からないけれど、過去からの仏縁を頂いていたことを強く感じさせられます。
この仏縁を無駄にすることのないように、少しでも、仏さまの教えを求め、学び続ける人生でありたいと思っています。
「自分はもう分かった。《と仏法を求めるのを止めるのではなく、どこまでも、学び続けていきたいものですね。
ある仏法の先生に「お浄土のことは死ぬまで分からない。《と教えられました。
「分かった。《と思ったら、それはおかしいのだそうですね。 合掌
最後に 「人生のほほえみ《【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「お返し《
私たちは
いつでも どこでも
多くの人の お世話になり
多くの物を 恵まれている
いつでも
どこでも
おかえしさせていただきたい との
願いを持ちたいものだ
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え《の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い《
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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