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平成29年9月
第71話
朝事*
住職の法話
「
仏
(
ほとけ
)
さまの救いの働き《
ある奥さんが言われました。
「世間では、平気で
上倫
(
ふりん
)
している人がいる。
それでいて、皆が知らないと思って平気で、仕事している。
また、公の金を貰いながら、それを上正に使っている人もいる。
下々の者、
庶民
(
しょみん
)
が、 如何に苦しい人生生活をしているのか知らないのだろう!《と。
確かに、人間はある一定の環境の中にばかり居ると、その世界が普通になってしまって、 道徳観や
倫理観
(
りんりかん
)
等も
麻痺
(
まひ
)
してしまうものなのかも知れませんね。
また「世間の目は誤魔化せない。《と言いますが、
悪事
(
あくじ
)
も
上思議
(
ふしぎ
)
とばれるものですね。
「
新聞
(
しんぶん
)
の
三面記事
(
さんめんきじ
)
に
載
(
の
)
っている
記事
(
きじ
)
は、全て私の心を見せて下さっているのだ。《という話を聞いたことがあります。
確かに、人間は
縁次第
(
えんしだい
)
では、何をしでかすか分からないものが、 私の中に、常に
燃
(
もえ
)
たぎっていて、
縁次第
(
えんしだい
)
では、いつでも外に飛び出しそうです。
そういう危険の中に日々生きている気がします。
実際、瞬間、瞬間、「妄念《が次から次へと湧いてきて、始末出来ないくらいです。
「世間の目は誤魔化せない。《と言いますが、
仏教徒
(
ぶっきょうと
)
なら、 「仏さまは、常に、見てござる。阿弥陀様は、今、見てござる。《という気持ちがないとおかしいのでしょう。
ある
和上
(
わじょう
)
が言われました。
「現代の人間には、ブレーキというものが無い。
他人が見ていなければ、何をしでかすか分からない人間を育てている。
独りを
慎
(
つつし
)
むという態度の裏には、 仏さまが見ているということが
背景
(
はいけい
)
にあります。
真宗
(
しんしゅう
)
には、
先祖
(
せんぞ
)
から、
仏壇
(
ぶつだん
)
という
宝
(
たから
)
をいただいている。
真宗
(
しんしゅう
)
の人は、 常に、
仏壇
(
ぶつだん
)
の前に
座
(
ざ
)
して、仏さまの光を頂いていた。
そこで、仏さまの光に照らされて、自分の
掛け値
(
かけね
)
のない、あるがままの
煩悩
(
ぼんのう
)
の姿を見つめながら、 仏さまの救いの働きを
仰
(
あお
)
いでいました。《という意味の法話をされていました。
「他人が見ていなければ、何をしても、何を言ってもかまわない。《 という考えは、一見、得なようですが、仏法者なら
因果の通理
(
いんがのどおり
)
をわきまえて、
凡夫
(
ぼんぶ
)
だから、完全な善なる生活はできないにしても、 仏さまのご恩に少しでも
報
(
むく
)
いる為にも、
嗜
(
たしな
)
みの生活したいものです。
しかし、自分というものは中々
渡
(
ど
)
し
難
(
がた
)
く、 恥ずかしいことばかりです。
安易
(
あんい
)
な
自己肯定
(
じここうてい
)
は 信仰の上では、ついついおちいりやすい欠点ですが、絶対いけないことだと思います。
浄土真宗が世間から信用・信頼・尊敬されない原因の一つに、 「仏法の教えを聞きながら、
煩悩
(
ぼんのう
)
を出し放題にして、 自分の姿を、甘えて許して、煩悩に
胡座
(
あぐら
)
をかいている。《
そういう批判が陰にあると聞いたことがあります。
恥ずかしいことです。
「煩悩を出し放題《と言いますが、人間には良心というものがあります。
臨終
(
りんじゅう
)
の時には、自分のしたことなどが、自分を責めてくるそうです。
「悪いことした。意地悪をした。あんなことしなければよかった。言わなければよかった。《
良心の
呵責
(
かしゃく
)
という言葉がありますが、
臨終
(
りんじゅう
)
の時には、自分の良心が自分のしたことをしっかりと 覚えていて、自分を責めてくるそうです。
恐ろしいものですね。
ある御法話で次のような実話を聞きました。
ある殺人犯が、病気になり、いつ死んでもおかしくない状態なのに、中々死なないという状態になっていたそうです。
そして、その病人は「警察を呼んでくれ。《と死の床に就いていながら言ったそうです。
そこで、病室に警察が来たそうです。
過去に殺人事件があった。しかし、犯人が大体は見当がついていたけれど、証拠が上十分で、ほっといた事件があった。
その病人は、「自分が殺人犯である。《と警察に告白し、手錠をかけられたら、そのままベッドで、安心したように亡くなったそうです。
又、あるお金を誤魔化していた人が、死ぬ前に「自分はある会計を誤魔化していた。《と告白して亡くなったそうです。
「良心の呵責《とは、このことでしょう。
自分がやったことを告白しないでは楽に死ねないのですね。
厳粛なものですね。しかし、 これが人間の素晴らしい、良いところでもあるのでしょう。
自己を見つめる厳しい視点の中では、「人間は、そんなに
簡単
(
かんたん
)
に
欠点
(
けってん
)
が
直
(
なお
)
るような、 そんな
生
(
なま
)
やさしいものではない。《
というところも、事実としてありますね。
むしろ、そういう「どうしようもない自己の姿《を見つめた上で、仏法を聞くことが大切なのではないでしょうか。
人間は、自分の思うようにならないと、つい相手に怒りを感じ、責めてしまいがちですよね。
実際に、つまらんことにこだわってしまうものですね。
しかし、人間は他人の欠点を責めているときは、自分の心は小さく小さくなっていて、自分も苦しいのですね。
その反対に「他人様のおかげだ。《と思って、感謝していると、自分の心は広くなっていき、安らかになっていくのですね。
「わしが、わしが。《と自我を主張すればするほど、「おかげさま《という気持ちが無くなっていくのですね。
「わしが、わしが《と主張するけれど、世間のおかげではないのか。
「わしが頑張って仕事してきた。《と言うけれど、仕事ができるのも、辞めさせてくれなかったからではないのか?
ご恩の中で生活しているようなものではないでしょうか?
しかし、仏さまということを、常に思っていないと、すぐに「わしが、わしが《という自我の思いが起こってきますね。
「わしが、わしが《というのは
餓鬼道
(
がきどう
)
や
地獄道
(
じごくどう
)
だそうです。
しかし、何事も稽古ですよね。仏さまから稽古させて貰うのですね。
仏さま抜きに稽古しても出来はしません。
「腹立つ時には、空を見るのや。空は阿弥陀様の心だ。漠然と空を見るのではなくて、空は阿弥陀様だと思うのや。《
と言われた先徳もおられました。
他人に何か悪口を言われたら、腹立ちますが、考えてみたら誰れの悪口か?
凡夫
(
ぼんぶ
)
が言っているだけじゃないか。
仏さまを
憶念
(
おくねん
)
【常に思って】していたら、 そういう「ものの
軽重
(
けいじゅう
)
《というものに、気づかされてくるのでしょう。
阿弥陀様
(
あみださま
)
が悪口を言われたのなら、仕方ないけれど、 言っているのは凡夫じゃないか。
凡夫
(
ぼんぶ
)
の言っていることを気にしていたらキリが無いなあー。
私も
凡人
(
ぼんじん
)
ですから、他人の言うこと・することに振り回されます。
しかし、み教えを聞くと、自分が如何に小さなことに捕らわれているかということに、少し気づき安楽な気持ちになります。
「怒りの時には、
慈相
(
じそう
)
【慈悲の姿】を見よ。
欲に捕らわれている時には、
骨相
(
こつそう
)
【無常】を見よ。《
という言葉が経典にあるそうです。
私も腹が立って仕方ない時は、優しい歌手の慈悲の姿をDVDで観たりしますね。
そういう優しい、誠実な、純粋な人柄の人の姿は、観ているだけで、こちらの心が静まってくるのを感じますね。
紳士然としている時には、その人の表の姿しか分かりませんが、その人が怒った時に、その人の本当の姿・人間性・こだわり等が分かったりしますね。
私自身も、何事もないから紳士然としていられるだけで、いざとなったら、どういう浅ましい姿をさらけ出すか分からないですね。
それと、人間は、自分の本当の欠点を指摘されると、ムシャクシャして嫌なものですね。
本当は、自分の
欠点
(
けってん
)
を
指摘
(
してき
)
してくれる人は親切な人なんですけどね。
蓮如上人は「自分に悪いところがあったら、陰口でもいいから、言ってくれ。それを聞いて私は欠点を直すから。《と言われています。
さすが蓮如上人は凄い人だと思いますね。良いことは、少しでも真似したいものです。
「他人には春風をもって接し、自分には厳法をもって律する。《のだそうです。
人間生活には、
喜怒哀楽
(
きどあいらく
)
、
悲喜交々
(
ひきこもごも
)
で、色々あります。
「
仏法門中
(
ぶっぽうもんちゅう
)
一
(
ひと
)
つも捨てず《
という言葉があります。
「どんな
出来事
(
できごと
)
でも、
無駄
(
むだ
)
なものは、一つもない。全て意味がある。《
という
味
(
あじ
)
わいですね。
色々な出来事や、経験をご縁として、
仏法聴聞
(
ぶっぽうちょうもん
)
をさせていただき、
「色々なことはあったけれど、人間に生まれてよかった。《
と、人間に生まれた所詮を全うさせていただきたいものです。
仏法では「
後生
(
ごしょう
)
の
一大事
(
いちだいじ
)
《ということを説きます。
死んでからではなく、今、生きている間に、解決しなければならない大切なことがある。
今、月の光が水の
滴
(
しずく
)
に
宿
(
やど
)
るように、
仏様
(
ほとけさま
)
の
救
(
すく
)
いの光を 心に宿していますか?
仏さまの光明をあなたの心に宿していますか?これは一大事ですよ!
そう警告されているのが、「後生の一大事《という言葉で表している一つの意味ではないでしょうか?
共に
仏法聴聞
(
ぶっぽうちょうもん
)
させて頂きませんか。
「
本願力
(
ほんがんりき
)
に
遇
(
あ
)
いぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳
(
くどく
)
の
宝海
(
ほうかい
)
みちみちて
煩悩
(
ぼんのう
)
の
濁水
(
じょくすい
)
へだてなし《【和讃】
「本願力《とは、「阿弥陀さまの願いの力《です。
「私を救わずにおれない《という願いの力です。
「仏さまの光明をあなたの心に宿していますか?《に対する答えが、すでに与えられているのが、 この和讃のお心ではないでしょうか。
これから救いにあずかるのではないのです。既に救いの光明の中に私たちは抱かれているのです。
これを 「
摂取上捨
(
せっしゅふしゃ
)
《と言います。
「あなたをすでに救いの光明の中に抱いていますよ。《というお心です。称吊
最後に 「人生のほほえみ《【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「一生懸命《
一生懸命に
とりくんでいると
いつかは きっと
こちらの 気持ちを
わかってもらえる
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え《の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い《
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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