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平成29年8月
第70話
朝事*
住職の法話
「
自照
(
じしょう
)
《
『
長阿含
(
じょうあごん
)
』という経の 「
大本経
(
だいほんきょう
)
《の中に 「
自照
(
じしょう
)
《という事が説かれています。
「
大智
(
だいち
)
の光は
冥
(
やみ
)
を
除
(
のぞ
)
く。 鏡をもて
自照
(
じしょう
)
するが
如
(
ごと
)
し。
世の
為
(
ため
)
に
憂悩
(
うのう
)
を
除
(
のぞ
)
き、
生老死
(
しょうろうし
)
の苦を
尽
(
つ
)
くす。《
この中に、「鏡をもて
自照
(
じしょう
)
するが如し《という一句がございます。
鏡が物を照らしてその物の姿を知らしめるように、法の光が私の命の内容を照らし出され、そして、
自
(
みずか
)
らを知らしめるとともに、自らの
帰趣
(
きしゅ
)
するところを、私に明らかにして下さる。
自分というものを知らずに、自分の帰するところは、私には知ることが出来ません。
自分というものを抜きにして、ただ向こうに、お釈迦様がどうである、親鸞聖人がどうであると言うのではない姿勢ですね。
この私に
自照
(
じしょう
)
の法を得させんが為に、お釈迦様、親鸞聖人が お出ましになられた。ご苦労なさったのは、この私の為である。
そういう姿勢が大切です。自分というものを抜きにしては、しょせん、仏法聴聞はないのでありましょう。
そう味わわないと、
器
(
うつわ
)
に
盦
(
ふた
)
をして、一生懸命に水を注ごうとしているようなものなのかも知れません。
お釈迦様も弟子に説かれています。
「よく聞くんだ。お前の心が
逆
(
さか
)
さまになっている以上、どれほど仏の教えを聞いても、 仏の側近くにいても、
一滴
(
いってき
)
の真実も身には入らないぞ《と。
自戒したいものです。
今日、八月六日は広島市では
原爆
(
げんばく
)
の日です。
各地区でも原爆に関係した行事等が開催されたり、テレビ等でも原爆関係の番組が沢山あるようです。
個人的な感想を言わして貰えば、、、
昔は八月六日は原爆の日ですから、
月忌
(
がっき
)
参りも大変でした。
今は原爆関係の
月忌
(
がっき
)
参りは少なくなり、月日の流れを感じます。
ところで、原爆の日の主人公は誰れでしょうか?
多くの方が思われていることだと感じますが、原爆で亡くなった方々ではないでしょうか!
「亡くなった方が南無阿弥陀仏となって私を導いている。《と言われた僧侶がおられました。
又、ある僧侶は、「原爆の日にお経の有り難さをしみじみ感じた。《と言われていたのを
懐
(
なつ
)
かしく思い出します。
原爆で亡くなった方は、きっと平和を願っておられることでしょう。
ある僧侶が言われていました。
「私は
被爆
(
ひばく
)
した、 多くの方々が
地獄絵
(
じごくえ
)
の中で亡くなっていったことを忘れることは出来ない。
長い間、原爆については
黙
(
だま
)
っていた。
ある時に、寺に子供を集めて、原爆の話をした。
子供の感想文に、
『友達と
喧嘩
(
けんか
)
しないで、 仲良くするようにしたいと思います。』という文章があり、それを読んで感動した。
慈愛
(
じあい
)
と
尊敬
(
そんけい
)
の念をもって友達に接すれば平和になっていくのではないでしょうか。《
そう静かに話されるのを聞いて、
真理
(
しんり
)
は決して難しいことではなく、 単純なところにあるのかと感じました。
しかし、それなのに私の毎日の生活はどうでしょうか?
自我
(
じが
)
を主張して、中々他人と仲良くできないのが、私の
偽
(
いつわ
)
らない姿ではないでしょうか!
何一つ言い訳するべきではないと感じます。
あるご法話で、「仏様は全ての人が仏様に見えるのだ。《と。
「私は全ての人が仏様に見えない。それが自分が
凡夫
(
ぼんぶ
)
の
証拠
(
しょうこ
)
である。《と。
「
自我
(
じが
)
が強いから、誰れとも手を
握
(
にぎ
)
ることができない。《
「『そうだね。』と
妥協
(
だきょう
)
できない。《
「
妥協
(
だきょう
)
するどころか、
自我
(
じが
)
が強いから、仏様まで自分を殺しにくる
鬼
(
おに
)
に見えるのだ。《と
説教
(
せっきょう
)
で聞いた ことがあります。
まことにその通りに思えます。
「あるがままに見る《ということを言いますが、
普通は、「目先の姿をそのままに見ること《を世間では「あるがままに見る《と言いますよね。
仏法
(
ぶっぽう
)
は違います。
「その人の過去から現在までの全てを含めてその人を見ること《を「あるがままに見る《と説きます。
もし、こういう見方が出来るのなら、家庭内でも、他人との人間関係にしましてもずいぶんと変わってくることでしょう。
テレビ番組で
観
(
み
)
たのですが、、、
ある男性は三歳の時に
被爆
(
ひばく
)
しました。
1、5キロ以内の
圏内
(
けんない
)
で被爆したのに上思議に生き残った。
その方は、そんな中で、
奇跡的
(
きせきてき
)
に生き残った意味を考えながら、 原爆や平和を
訴
(
うった
)
える活動をしてこられました。
現在は子供たちに、折り鶴の折り紙を指導しながら、平和について説かれているようです。
「子供は純粋で素直で、本能的に大切なことを見抜く目を持っている。《という意味のことを言われていました。
大人の方が、かえって聞く耳をもっていないのかも知れませんね。
聞いていて、そう思わされましたね。【自戒です、、。】
その男性は、被爆したことをご縁にして、ずっと平和などについての
思索
(
しさく
)
を深めてこられたようです。
「原爆の落とされたことに対しては
悔
(
く
)
やむけど、人は憎まない。《と言われました。
「世の中の色々な
許
(
ゆる
)
せないような出来事はあるけど、その事実は憎むけど、 人間は憎まないのだ。《と。
「例えば、起こった出来事を、編み物を一度ほどいて編み直す
作業
(
さぎょう
)
をするのだ。《と。
「憎むべき事実を一度ほどいて、編み直す作業が、平和の為に大事な作業だ。《と教えられておられるようでした。
又、「平和の為には、人間を好きになることが大切だ。《と言われていました。
「他人が自分の心をノックしたら、『どうぞお入りなさい。』と言う気持ちが大切だ。《という意味のことを言われていました。
「今はこの気持ちで生きて、幸せを感じて生きています。《と言われていました。
自分自身が体験した中から、
実践
(
じっせん
)
してきた言葉には教えられることが多いと感じました。
又、この考え方は現代社会に通用する、又、現代に必要な大切な教えではないかと思います。
しかし、「他人が自分の心をノックしてきたら、『どうぞお入りなさい。』という気持ち。《は素晴らしいとは思いますが、 中々誰れに対しても心を開くことは、
簡単
(
かんたん
)
なことではないと感じます。
又自分の心自体が中々自分の思い通りになってくれません。
例えば、自分が友達と
喧嘩
(
けんか
)
した。
何とか仲直りしたいけど、仲直りしようと思って近づいて話しかけても、 相手が知らん顔したら、腹が立ってきます。
自分の心が中々自分の言うことを聞いてくれません。
又、いくら仏様のことをいくら有り難くなろうと思っても、中々有り難く思えません。
皆さんはそんなこと感じたことはありませんか?
一番自分の言うことを聞いてくれないのは、自分の心ではないでしょうか!
近年には、子供が子供を殺した
衝撃的
(
しょうげきてき
)
な事件が何件か起こりました。
その子供の心の
闇
(
やみ
)
にノックする人はいなかったのでしょうか?
いいえ、例えノックしても、
固
(
かた
)
く
閉
(
と
)
ざしていたに違いありません。
そんな心の闇の中に入り込めるのは仏様だけでしょう。
阿弥陀様
(
あみださま
)
のことを
無碍光仏
(
むげこうぶつ
)
とも言います。
内なる
煩悩
(
ぼんのう
)
も
外側
(
そとがわ
)
の
如何
(
いか
)
なる
妨害
(
ぼうがい
)
も、 ぶち
破
(
やぶ
)
って何ものも
妨
(
さまた
)
げることのできない
救
(
すく
)
いの
働
(
はたら
)
きのことです。
阿弥陀様
(
あみださま
)
の呼び声が念仏となって、 私の闇の心をノックし続けておられるのでしょう。
お念仏の呼び声が、休むことなく、苦悩に泣く私の闇の心をノックしているのかも知れませんね。
私達はお念仏のみ教えを頂くご
縁
(
えん
)
を
頂
(
いただ
)
いています。
「親なれば、罪こそ憎め、憎めども、捨てぬは、親の情けなりけり《
原爆の日をご縁に、お念仏のみ教えを改めて、私自身に深く味わいたいものでございます。 称吊
最後に 「人生のほほえみ《【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「つもり《
がんばる つもり
しっかりする つもり
勉強する つもり
「つもり《だけで
終わってしまう と
おかしかったり
かなしかったり
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え《の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い《
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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