朝事・住職の法話
平成24年5月「名号」について
早朝より、ようこそお参り下さいました。
日々、色々な出来事ばかりに振り回されて、「あの人がこう言った、この人がこうした。」というように、
そういうことばかりを考えて生きていくことが何かしっかりした生き方のように思いますが、
人間として、一番大事な、本願のいわれを聞くということが案外おろそかになっているのではないかということを思います。
「正信偈」に
「本願の名号は
正定の業なり」
「至心信楽の願を
因となす」
とございます。
自分の称えた念仏の功徳
によって往生するのではなく、
阿弥陀如来が第十七願によって成就された名号が、
往生浄土の
業因であり、
自分のおこした信心で往生するのではなく、第十八願こそ浄土往生の因であると示し、浄土往生の因は、
まったく如来の願力によるものであることを説いてあります。
では、名号願力の
ひとりばたらきで往生するものであって、
私には、法を求めていくことも、聴聞することも、
信ずることもまったく必要がないのかといえば、そういうことではなく、
道を求める心も、聞く気になったのも、自分がおこしたものではない、
如来の光明のお育てがあったからからであると、説かれるものであり、
特に、この場合は、信ずることも、称えることも、南無阿弥陀仏の名号の中に包まれておるのであります。
古人は
「名号は私を信ぜしめ、行ぜしめて、連れていくものである」といっております。
だから、名号は私の信心となり、念仏となってお浄土に連れていって下さるのだといってもよいでしょう。
この意味から言いますと、私が信じておるまま、また、念仏しておるままが、
名号の動いていてくださる姿であるといってよいのであります。
称えておりながら、信じておりながら、それはそのまま、
十七願の名号のはたらきであり、
第十八願の活動であると、
往生浄土の全体が、
仏力他力によることを示されたのが、
この文であると味わうべきでしょう。
ここに絶対他力の教えがあらわれておるのであります。
正定業の意味につきましても、
「まさしく決定した業因」
すなわち、浄土に往生する間違いない因という意味であります。
また正定業とは何か、
正定業は
念仏であり、信心であり、名号の場合と三つの用い方があります。
また、名号は正決定の業因というときも、
信心正因というときも、
まったく同じ意味であります。
名号と
信心とは、同一のもので、
名号が
私に至り届いて下さっておるものを信心というのでありますから、
業因も、正因もまったく同一のものとみるべきであります。
「正信偈」のはじめに、
「帰命無量寿如来、
南無不可思議光」
とありますが、
これは
「帰命」は、インド語では「ナモ」であり、
無量寿如来も、
不可思議光如来も、
阿弥陀如来
のことであります。
だから、この二句は、インドのもとのことばになおすと「南無阿弥陀仏」となるのであります。
しかも、この二句は、「正信偈」
に説かれた全体の意味をしめされたものでありますから、
「正信偈」は、
「南無阿弥陀仏」の名号のいわれを
説かれたものとみるべきでありましょう。
その南無阿弥陀仏のいわれを聞くことが、
「正信偈に聞く」もっとも大切なことであります。
南無阿弥陀仏の名号とは何か、
この名号はいっさいの
功徳の
おさまったものだとも言われていますが、
これをどう味わうのか。
南無阿弥陀仏はインドのことばであって、中国に仏教が伝わってからも、誰れが定めたということなしに、
インド語のままで伝えられて、中国語に翻訳しないならわしになっています。
親鸞聖人は、南無阿弥陀仏とは
「如来の
おおせ(教命)にまかせる(帰順)」という意味に、用いて
帰命と
信心とは、
まったく同一のものとされたのであります。
だから浄土真宗においては、南無阿弥陀仏と称える称名は、
「阿弥陀如来のおおせにまかせる」と申し上げる意味となり、
そのおおせとは、「われ汝を救う」
という内容でありますから、
「お救いのことは、すべて阿弥陀如来の
おおせにまかせます」
ということになるのであります。
そこに「ありがとうございます」という御恩報謝の意味もふくまれているのであります。
その意味では、称名は、
如来のおおせにまかせた信心の表現であるいうてよいでしょう。
帰命とは、
「自分にまかせなさい」
という如来のおおせということになりますと、
南無阿弥陀仏ということは、
阿弥陀如来が「往生浄土のことは、私にまかせなさい」
という如来の仰せ
となるのであります。
称名・
念仏とは、
私が如来に向かって
「仏になることは、あなたにおまかせします。ありがとうございます。」という報謝の念仏か、
私の口を通して「仏になることは、この阿弥陀にまかせなさい」という、
如来のお呼び声かの二つの意味になるのであります。
しかも、念仏を信ずるという場合は、むしろ如来の呼び声なのであります。
「聞くでなし、信ずるでなし、ただ呼び声の響き渡れる」と味わわれた方があります。
ある信者は「姿は見えねど、声がする」と味わわれています。
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏の
教えに
あうものは、いのちを
終えて
はじめて
救いに
あずかるのではない。
いま
苦しんでいるこの
私に、
阿弥陀如来の
願いは、
はたらきかけられている。
親鸞聖人は
仰せになる。
信心
定
まるとき
往生また
定まるなり
信心
いただくそのときに、たしかな
救い
にあずかる。
如来は、
悩み
苦しんでいる
私を、
そのまま
抱きとめて、
決して
捨てる
ことがない。
本願の
はたらきに
出あう
そのときに、
煩悩を
かかえた
私が、
必ず
仏になる
身に
定まる。
苦しみ
悩む
人生も、
如来の
慈悲に
出あうとき、
もはや、
苦悩
のままではない。
阿弥陀如来に
抱かれて
人生を
歩み、
さとりの
世界に
導かれて
いくことになる。
まさに
今、
ここに
至り
とどいている
救い、
これが
浄土真宗の
救いである。
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