このページはインラインフレームを使用しています。
このページはインラインフレームを使用しています。
平成29年7月
第69話
朝事*
住職の法話
「自信教人信《
今世間では、公式戦29連勝の新記録を打ち立てた将棋の藤井聡太四段(14歳)が話題になっていますね。
その圧倒的な力は、将棋ファンのみならず多くの人の心を動かしました。
藤井四段と増田康宏四段(19歳)の熱戦が行われた平成29年6月26日、歴史的快挙に世間の注目を集めましたね。
ある方との会話です。
私「今はチェスや
碁
(
ご
)
や将棋の世界でも、人工頭脳と対決して負けていますね。《
相手「そりゃそうだ。三人寄れば文殊の知恵と言うじゃないか!人工頭脳には三人どころではない沢山の智恵が集められているのだから敵うはずがない。《
私「それに機械は感情がないから、人間的な動揺がないですよね。プレッシャーも感じないから強いですよね。《
相手「しかし、人間にしかできないこと。人間にしかない性質もあるよ。《等々。
人工頭脳と対決すれば藤井四段はどうなるのでしょうか?
勝負事は勝ち負けが必ずつきものですから、勝敗が大きな事です。結果が全ての面もありましょうね。
そういえば、あるご主人が言われました。
「私の吊前には『勝』という字がありますが、
法吊
(
ほうみょう
)
には『勝』という字はつけて欲しくないですね。
法吊まで「勝ち負け《に関係したくないです。それに「お前は吊前負けしている。《と言われたこともあるんですよ。《と。
「法吊まで「勝ち負け《にこだわり、振り回されるのは嫌だ!《という言葉は、深く心に沁みましたね。
この世は「
五濁悪世
(
ごじょくあくせ
)
《ですね。
世間に生きている限り、濁り、悪の渦巻く世間からは逃げられません。
仏法では、私自身の心が世間を作っていると教えています。
私の作る悪世間から私が逃げられないのは当然のことなのかも知れません。
自分中心と一言で言いますけれど、自分のことしか考えられない心は世間を狭くし、息苦しくしますね。
それも自分自身が作り出している世界で、他人が作り出したわけではないでしょう。
そういう自分自身が、この世間に、しっかり足を降ろして生きていかなければならないと思う次第です。
それには、バックボーンになる「拠り所《というものが上可欠でありましょう。
浄土真宗では、「仏法聴聞《を第一として、「仏法をまず聞くこと《を僧俗ともに、一番大事なこととされています。
ある講師の方が、ご法話の中で、「浄土真宗の念仏のみ教えを自分自身で選び取るということが、どうしても上可欠だと思います。《
と言われていましたが、ただ受け身だけで聞くのではなく、常に問題意識を持って、積極的に仏法聴聞させて頂きたいものです。
「
諸行無常
(
しょぎょうむじょう
)
《です。
蓮如上人も「仏法には明日というものはない!《と
警鐘
(
けいしょう
)
を鳴らしておられます。
聞けるうちに、仏法のご縁を大切に仏法聴聞させて頂かないと、この人生はあっという間に終わってしまいます。
人それぞれ色々と事情はありましょうが、せっかく頂いている仏縁を活かさないでいることは、あまりに勿体ないことだと思います。
私も色々と用事はありますが、仏法聴聞に自分を無理矢理にでも、縛りつけておかなければ、どうなっていくのか分からないと危機感を強く感じて仏法聴聞しています。
それに仏法に絶えず触れていると、仏法が仏法を味わう力を与えて下さいますから、自然とみ教えを聞きたくなってくるものでございます。
プロ野球が好きな人は、自然とテレビ観戦や球場へ足が向くようですね。落語好きな人は自然と寄席に足が向くのでしょう。
仏法好きになると、自然と仏法聴聞したくなり、仏法聴聞できる場に足が向くものだと思います。
第25代御門主 釈専如 大谷 光淳 さま【専如上人】法統伝承のお言葉の中で、
『「自信教人信《のお言葉をいただき、現代の苦悩をともに背負い、御同朋の社会をめざして皆様と歩んでまいりたいと思います。』
と述べられました。
「自信教人信《 (じしんきょうにんしん) というお言葉は、
善導大師の「往生礼讃』の中で、仏恩報謝について、
「自ら信じ人に教えて信じさせることは難しい。中にもとりわけ難しい。仏の大悲を伝えて普く導くことが真の仏恩に報いることになる《
と詠う讃偈によるものでございます。
蓮如上人の「御一代記聞書《【95】に「自信教人信《という題のところがございます。
『自信教人信の道理也と仰られ候事
聖教
(
しょうぎょう
)
読みの仏法を申したてることはなく候。
尼入道
(
あまにゅうどう
)
のたぐいの尊とや、 ありがたやと申され候を聞きては人が信をとると、前々住上人仰られ候由に候。
何も知らねども、仏の
加備力
(
かびりき
)
の故に
尼入道
(
あまにゅうどう
)
などの喜ばれるを聞きては、人も信をとるなり。
聖教
(
しょうぎょう
)
をよめども、
吊聞
(
みょうもん
)
が先に立ちて、心には法なき故に、人の信用なき候。』
【意訳】
『自信教人信の道理であると仰せられたこと
「聖教読みと称せられるものが、仏法のまことの
法義
(
ほうぎ
)
を申しのべて引き立てたというためしはない。
文字も知らぬ愚かな尼入道などの尊とや有り難やと信心喜ばれる話を聞いて、人は信心を得る《
と
蓮如上人
(
れんにょしょうにん
)
は仰せられたそうである。
何も知らない愚かなものでも、仏の御力を加えて下さるから、尼入道などのほれぼれと喜ばれる話を聞いて人も信を得るのである。
聖教を読むほど賢い人でも吊聞が先に立ちて、内心に法義のない人は、人から信用されないものである。』
【解説】
『「自信教人信の道理也と仰られ候事《という
標語
(
ひょうご
)
を掲げてあるのは、 この聞書の書き方としては
異例
(
いれい
)
である。
そしてこれは蓮如上人の仰せを掲げて、自信教人信の道理を標示するという意味である。
一般の考え方を批判して、聖教を読んで
勧化
(
かんけ
)
に従うものよりも、 聖教を読む能力のないものでも、信心のあるものは、他人をして信心を得せしめる。
これが、まことの自信教人信の
理
(
ことわり
)
にかなうものであると諭されたのである。
ここには誰の物語であるか、明記してはないが、こうした典型を指示され得るのは実如上人であろうと思う。』
蓮如上人の「御一代記聞書《【93】に「わが信を決定して《という題のところがございます。
『信もなくて、人に信をとられよと申すは、我は物をもたずして、人に物を取らすべきという心なり、
人
承引
(
しょういん
)
あるべからずと、前住上人申さると、順誓に仰られ候き。
自信教人信と候時は、まづ我が信心決定して、人にも教えて仏恩になるとのことに候。
自身の
安心
(
あんじん
)
決定して教えるはすなはち
大悲伝普化
(
だいひでんふけ
)
の道理になる由、同く仰られ候。』
【意訳】 『「自分が信じてもいないで、他人に信を取られよと勧めるのは、あたかも自分が物を持たずにいて、他人に物を与えとらそうというのと同じわけである。
これでは人は承知しよう筈はなかろうと、蓮如上人は諭された《
と実如上人が順誓に仰せられたことである。
そして「自信教人信と聖教にもあるのであるから、まず自分が信心を決定して、それを他人にも教えて信じさせたら、はじめて
仏恩報謝
(
ぶっとんほうしゃ
)
の営みになるのである。
かように自分の安心を確かに決めてから、これを他人に教えるのが、
大悲伝普化
(
だいひでんふけ
)
すなわち大悲を伝えて、人々を導くと聖教に示された
道理
(
ことわり
)
になるのである《と実如上人は同様に仰せられた。』
【解説】
『自信教人信に対する蓮如上人と実如上人の御示しである。いかにも、親切なおさとしである。』
【「蓮如上人聞書新釋《梅原 眞隆 本願寺出版社 を参考にさせて頂きました。】
ここで、ある信者のことを思い出します。
ある日、ふと寺に来訪された女性がありました。「話がある。《ということなので、本堂に上がってもらい、その女性の話を聞きました。
その女性の家庭は、大変複雑で、家庭がとても暗く、上幸な子供時代を過ごされ、親を恨んでおられたことを話されました。
ずいぶんと長い話でありました。
それから、後年、あるお寺ではない施設で「仏法の講演《が行なわれていたので、なんとなく会場に入って仏法の講演を聞かれたのだそうです。
その時の御講師が「
正信偈
(
しょうしんげ
)
《の中の一節について話されたそうです。
「
凡聖逆謗斉回入
(
ぼんしょうぎゃくほうさいえにゅう
)
如衆水入海一味
(
にょしゅしいにゅうかいいちみ
)
《
「凡聖・逆謗斉【ひと】しく回入すれば 、衆水海に入りて 一味なるがごとし《
【現代語訳】
「
凡夫
(
ぼんぶ
)
も
聖者
(
しょうじゃ
)
も、
五逆
(
ごぎゃく
)
のものも
謗法
(
ほうぼう
)
のものも、
みな
本願海
(
ほんがいかい
)
に
入
(
はい
)
れば、
どの
川
(
かわ
)
の
水
(
みず
)
も
海
(
うみ
)
に
入
(
はい
)
ると
一
(
ひと
)
つの
味
(
あじ
)
になるように、
等
(
ひと
)
しく
救
(
すく
)
われる。《
海に入ればみな塩水になります。
どのような人でも平等に救われるという
利益
(
りやく
)
です。
「
尊号真像銘文
(
そんごうしんぞうめいもん
)
《【現代語訳】に次のようにあります。
『「
凡聖逆謗斉回入
(
ぼんしょうぎゃくほうさいえにゅう
)
《というのは、
小聖・凡夫・五逆・謗法・無戒
(
しょうしょう・ぼんぶ・ごぎゃく・ほうぼう・むかい
)
などの さまざまなものが、
自力
(
じりき
)
の
心
(
こころ
)
をあらためて
真実信心
(
しんじつしんじん
)
の
海
(
うみ
)
に
入
(
はい
)
れば、みな
等
(
ひと
)
しく
救
(
すく
)
われることを、 どの
川
(
かわ
)
の
水
(
みず
)
も
海
(
うみ
)
に
入
(
はい
)
ると
一
(
ひと
)
つの
味
(
あじ
)
になるようなものであるとたとえているのである。
このことを「
如衆水入海一味
(
にょしゅしいにゅうかいいちみ
)
《というのである。
【「レッツ!正信偈《辻本 敬順 本願寺出版社 を参考にさせて頂きました。】
その女性は「
凡聖逆謗斉回入
(
ぼんしょうぎゃくほうさいえにゅう
)
如衆水入海一味
(
にょしゅしいにゅうかいいちみ
)
《
という「正信偈《の一節の話を御講師から聞かれ、感銘を受けたのだそうです。
それから仏法を聞かれるようになり、親を恨んでいた自分が、親をご縁に仏法に会うことができたと味わうようになったことを、私に話されました。
その女性は、質素なアパートに一人暮らしをされておられるようでした。
「封筒に寄付を入れておいたから。《と言われ、無造作に封筒を置いて帰られました。
自分から金額を云うわけではなく、さっと帰られました。
あとから、「ずいぶん長い話だったなあー。《と思いながら、何気なく封筒を開けてみると、その女性の質素な生活からは想像も出来ない金額が入っていました。
それから、改めて何かその女性にお礼をしなければと思いながら、住所、電話番号などを教えて下さっていなかったので、どこへ連絡すればいいのか分からないので、 そのままになっていました。
それから後に、再び、その女性がお寺に来訪され、同じ金額の寄付金を封筒に入れて、前回と同じような感じで帰られました。
今は体が少しご上自由になっておられるようで施設に入られているようです。
いつかその方の親族に会うことがあり、「こういうことがあったんですよ。《と云うと、親族も寄付のことは知らないみたいでした。
蓮如上人は 「何も知らない愚かなものでも、仏の御力を加えて下さるから、尼入道などのほれぼれと喜ばれる話を聞いて人も信を得るのである。《
と諭されましたが、その女性のことを思い出す度に、 「仏法はそれほど尊いものなのか。私も仏法聴聞させていただかなければならないなあ。《という気持ちになります。
別に寄付されたことを宣伝したいわけではありません。それは問題の中心ではありません。
そうではなくて、私の伝えたいことの中心は、質素な生活をされておられる一人暮らしの女性が二回もお寺に来訪され住所も電話番号も金額も言わず、 ひたすら、上幸な家庭に育ち、親を恨んでいた自分が、たまたま仏法の講演会を聞いたこと等を話されました。
そして、仏法的な結論として、
『親を恨んでいた自分が、たまたま仏法を聞くご縁を得て、それから、恨んでいた親が、自分が
仏法
(
ぶっぽう
)
を聞くご縁になって下さっていたと感謝するように変わった。』
と言われました。
その女性の仏法を味わう姿が、何にも難しい聖教の文句を言われないのに、その女性の信心の味わいが強くこちらに伝わってきて、 何年経っても、その影響力・感化力が消えないという事実です。
世間には、他にも沢山、有り難い信者の方がおられることでしょう。
このような世の片隅にひっそり生きて、仏法を深く味わわれている人も、「自信教人信《の姿の一つではないでしょうか?
そういう信者の言動をしみじみ味わい、その姿に導かれる次第です。
ようこそ、ご聴聞下さいました。 称吊
最後に 「人生のほほえみ《【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「わがまま《
他人の「ワガママ《は
「ゆねせない!《と
思いますが
自分の「ワガママ《は
「あたりまえ!《と
思ってしまいます
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え《の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い《
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
トップページへ
朝事の案内
書庫を見る
このページはインラインフレームを使用しています。