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平成29年1月
第63話
朝事*
住職の法話
「自己に正直に《
本年もよろしくお願いします。年末年始、皆様はどんなふうに過ごされましたか?
除夜の鐘にも沢山の方に来て、頂き嬉しかったです。有り難うございました。
昨年は、「人が集まらなくなったら、どんな組織もお終いだ。《と言われたことを思い出します。
朝事の法話も今年の第一回目です。「聞くに始まって、聞くに終わるのが、浄土真宗である。《と聞いたことがあります。
浄土真宗では、「聴聞《といいまして、「先ず聞く《ということを大切にしています。
朝事の法話も、形は私が他人に話すという形ですが、「聞く《ということを一番大切なことだと、今一度確認したいものです。
話しながら、「聞く《ことに重きを置きたいものです。
ある方が、「他人に話す人は、大体聞くことが欠けている。《と言われていました。恥ずかしいことです。
「
信心
(
しんじん
)
安心
(
あんじん
)
の 世界では、嘘が一番いけない。自分が有り難く感じてもいないのに、有り難そうなこと言ったりするのは嘘である。《と教えられました。
無意識の嘘が一番怖い気がしました。そういう意味で「自分に正直に《という題にした次第です。
浄土真宗では、「お育て《という言葉があります。最近この「お育て《ということが、自分の身に染みて感じられます。
自分が、懈怠ながらも、今のように、み教えを聴聞するようになったのはどうしてだろうか?
やはり、理屈ではなくて、ご縁のある御講師の方々の熱意というものが大きいご縁だったと思わずにおれません。
「なんとか、このことを伝えてやりたい。《という熱意というものが、講師を通じて、仏さまの心が伝わってきたということではないかと感じるのです。
浄土真宗では「南無阿弥陀仏のいわれ《を聞くことが大切だと聞かされてきました。
「いわれ《とは、「はたらき《のことだと聞いたことがあります。
「南無阿弥陀仏のいわれ《とは、「南無阿弥陀仏のはたらき《という意味だと教えられました。
今、こうして、み教えを聞くようになったのも、「お育て《つまり「仏さまのはたらき《のおかげです。
今、こうしてお念仏を称えさせて頂いているのも、「お育て《です。決して自分の力ではなかったんですね。
よく御法話で、「仏さまのはたらきを、自分の
手柄
(
てがら
)
にしているのは、 仏の功徳を盗む泥棒だぞ。《と聞いたことがあります。
「聞く《ということに関して、
香樹院徳龍
(
こうじゅいんとくりゅう
)
という方の語録に 次のような話が記されています。
「ある人の
尋
(
たずね
)
にこのたびは、仕おおせらるるように思われませぬ、と申し上げだれば、
仕おおせられまいと思うは
凡夫
(
ぼんぶ
)
の心、仕おおせさせるとあるが、如来さまの御こころ、
そのこころをもらうのじゃ、仏の心で仏になるに、何の間違いがあろうぞ。
それでよく聞けよく聞けと云うのじゃ。と仰せられたり。《
実際に御講師から、御法話を聞いている時は、よろこびがありますが、日常生活に戻ると、相変わらず、恥かしい生活に戻ってしまいます。
これでは、どこに仏法を聴聞した値打ちがあるのだろうか?
一つには、そういう気持ちを、「仕おおせらるるようにおもわれませぬ。《と表現されたのでしょう。
又、「こんな聞きようでは、私は
往生
(
おうじょう
)
が、仕おおせられない。《という意味も当然ありましょう。
ここで、考えてみたいのですが、人間は何事も、
自我
(
じが
)
を中心にして、考えていきますよね。
仏法を聞く上でも、「自分が聞いて、自分が念仏を称えて、自分が安心して、、、《と、とにかく「自分が自分が、、《となってしまいがちです。
しかし、仏さまの心を人間の努力くらいで聞くことが出来るのでしょうか?
私に聞くことが出来ることは、私のレベル以下のことでしかないのではないでしょうか?
そこには、ただ自分の頭で理解したことを自慢してみたり、知識を喜んでいるだけではないでしょうか?
そこには、何の感動も、上思議も、心の底からの喜びも、仏さまに対する
畏敬
(
いけい
)
の
念
(
ねん
)
も、感謝の念もないのではないでしょうか?
ここで、香樹院徳龍師は、「仏の心で仏になるのに、何の間違いがあろうぞ。《と諭されています。
「仏の心で《と云われています。「自分の心で《とは言われていません。
香樹院徳龍師は、「仕おおせられまいと思うは
凡夫
(
ぼんぶ
)
の心、 仕おおせさせるとあるが、如来さまの御こころ、
そのこころをもらうのじゃ、仏の心で仏になるに、何の間違いがあろうぞ。
それでよく聞けよく聞けと云うのじゃ。と仰せられたり。《と言われてます。
「よく聞く《ということの深い意味合いが、ここに語られている気がします。
こういう言葉は下手に解釈したり、解説するものではないのかも知れません。
ただ香樹院徳龍師は、ご自身の深い体験から、こういう言葉を語られていると思うのですね。
香樹院徳龍師は、何か聞かれると、相手の問いに対して、否定されたりせず、それは間違っているぞと諭したりせず、説教もされないですね。
相手の問いを、そのまま受け入れて、人間の問いとして、誰もが持つ問いとして、人間の代表的な質問として、取り上げ、その悩みに自分の体験から 答えておられるところが凄い方だと思わずにおれません。
「いくら仏法を聞いても、何も変わらない。《という悩みを抱いて念仏するときに、「仕おおせさせる。《という如来さまの心が
映
(
うつ
)
って来たのでしょうか?
ありのままの凡夫の心を、
敢
(
あえ
)
ていらわず、そのままにしておいて、 仏さまの心「仕おおせさせる。《を聞くのでしょうか?
凡夫の心をどうにかしようとしても、益々迷いに入り込んでいくだけですよね。
それがどうにもならないから、仏さまは「仕おおせさせる。《という、仏さまの
仰
(
おお
)
せが 聞こえるのでしょう。
「仏の心で仏になるのに、何の間違いがあろうぞ。《とは、我々の思いはかることの出来ない、 何と
広大
(
こうだい
)
な仏さまの心でしょうか。
「仏さまの心で仏さまになるに、何の間違いがあろうぞ。《とは、説明ではなく、み教えの言葉でありつつ、そのまま仏さまの願いが
顕現
(
けんげん
)
したもので、そこを、「よく聞け《と教えられたのではないでしょうか。
凡夫の心の全否定されるままが、そのまま仏さまの心に抱き取られていく、仏さまの世界が、私たちの上において「仕おおせさせる。《が実現している 姿ではないでしょうか。
どこまでも利用する心、「これを聞いたら一体何が得られるのか?《という自我の根性が消えない私です。
こういう汚い自我の根性では、絶対聞けないのが、高次な仏さまの世界ではなかったかと思う次第です。
仏さまに呼びかけられている私。
浄土真宗のお寺の阿弥陀様は、少し
前傾
(
ぜんけい
)
に作られています。
よくよく見ないと分からないくらいですが、少し前に傾いているのですね。
それは、阿弥陀様は「はたらき《である。ということを示していると教えられたことがあります。
阿弥陀様は、こちらから、向こうに
眺
(
なが
)
めるものではなく、「はたらき《なんですね。
「はたらき《とは「仕おおせさせる《働きですよね。
「はたらき《とは眺めるものではなく。受けるものですよね。
「み教えを聞く《とは「南無阿弥陀仏のいわれ《つまり「南無阿弥陀仏のはたらき《を聞くことであり、それは、今・私を照らし出す働きでもあるのですね。
信心
(
しんじん
)
とは、 「
本願力回向
(
ほんがんりきえこう
)
の
信心
(
しんじん
)
《 だと、
聖典
(
せいてん
)
に説かれています。
「
本願力回向
(
ほんがんりきえこう
)
《という言葉が、「信心《の上についています。
全てが本願力のしからしめる働きであり、その流れの中に包まれて、日々お念仏に照らされ、導かれて歩ませて頂きたいものです。
ようこそ、お聴聞して下さいました。 称吊
最後に 「人生のほほえみ《【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「対話《
日・月・星・山・海・空
花・虫・小鳥・動物・や
おや・家族・友だち・先生
人々と 対話をしよう
仏さまと 対話をしよう
ー耳をすませて聞いてごらん
いのちの言葉が 響いてくる
とっても やさしくなれる
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え《の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い《
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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