朝事あさじ・住職の法話

平成24年4月「歓喜と懺悔・ザンギ」

早朝より、ようこそお参り下さいました。
世間の人間の中には、自分の努力ではかなわない自分の願いを、神仏の力でかなえようとするのが宗教だと思っている人がいます。
ある本に次のような示唆深い寓話がのせてあった。
それは、ある国の話で、ある村に、神さまをおまつりしようということになった。 さて、どんな神さまをおまつりしたらよいかという段になって、村人の意見が二つに分かれた。
神さまの候補が二つあったのである。
一つは、人間は因果の道理をわきまえて、正しい生活をしなければならないと教える神さまであり、
一つはそんなことはどうでもいい、おねがいさえすれば何でも思いをかなえてやるという神さまであった。
議論が対立してなかなか相談がまとまらなかったが、それでは投票で決しようということになって、 おのおの投票をおこなった。
そして票をあけてみた結果、人間の欲ふかいこころがさらけだされた。
因果の道理をわきまえて、正しい生活をせよ、そんなむつかしいことはかなわない。
それよりは、おねがいさえすれば、何でも思いをかなえてやるという神さまの方がいいではないか、という方が大多数だった。
ついに、その神さまがまつられた。
村人は何でも思うことをおねがいにいった。
村人たちは自分たちの願いがどんどん聞いてもらえるので喜んでいたが、そのうちにあまり何でもいうことを 聞いてくれ過ぎて行きづまることができた。
それは、村に二人の若者がいて、一人の娘に恋をした。
両方からぜひにお嫁に来てほしいと申し込んだが、なかなか決まらない。
そのうち一方の若者が考え込んで、こんな時こそあの神さまにお願いしたらどうだろう、ということになってお願いに出かけた。
何でもいうことをきいてくれる神さまは重宝なもので、よろしいということになって、さっそく希望がかなえられて、結婚ができた。
一方では、それで喜んだが、一方は、虫がおさまらない。
それならこちらも神さまにお願いにいこうということになって、その若者も神さまのところに出かけていった。
自分は彼らがこの地上に生きておることが不愉快でたまらない。どうか彼らを死なせてもらいたいとおねがいをした。
何でも願いさえすればきいてくれる神さまだから、それもよろしいということになって、とうとう新婚の二人を死なせてしまった。
そこで村人は考えなおさずにおられなかった。
こんなに何の見さかいもなくいうことをきいてくれては、それぞれが好き勝手なことをお願いして大変なことになる。
殺し合いになってしまう。村が全滅する時がきてしまう。
やっぱり何でもいうことをきいてくれる神さまよりは、人間は因果の道理をわきまえて、正しい生活をせよと教える神さまでなければならないということになって、 とうとう神さまのまつりかえをしたということである。
この寓話の中にもあらわれているように、人間は、盲目的な欲望の火をもやして、それをとげるために手段をえらばない。
しかし、そうした欲望が、人と人との対立となると、互いに破滅をまぬがれないのであるが、かくて無反省、無自覚な欲望は、 人間を限りなく、闇の路へひきずりこんでいくのであって、そうした人間の欲望をかなえるという宗教は、正しい宗教とはいわれないのである。
人間は欲望をかなえる宗教は間違いだということは分かったけれど、実際問題として、欲望を抑えて正しく生きることが、この私に出来るだろうか。
そこで、このままをお救い下さる阿弥陀如来のお救いに感謝し、自己の欲望を反省し、懺悔・ザンギすることが大切に思われてきます。
祖聖は
『まことに如来の御恩ということをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしということをのみ申しあへり。』
といわれている。 われわれは、御恩ということを忘れて、「あの人が悪い、この人が悪い。」と、他人の悪口ばかり言っている。 真の善悪を見通すことができるのは、絶対無我の境地をさとった仏でなければならない。
祖聖は、狂酔した我執の自己を見限って、絶対無我のさとりをひらかれた仏の前に、ひれ伏してゆかれたのである。
四国にたいへん仏教に造詣の深い文学士がおられた。彼は東京の大学を卒業し、故郷にかえって学校の先生をしていた。
彼の書斎には仏教の書籍がぎっしりとつめられて、いつも、それを読むのを楽しみにしていた。
ある日、彼の同窓生で、東京で学校の先生をしている友人が、彼の家を訪ねてきた。
久しぶりに、思い出ばなしにふけっていたがそのうち、仏教の好きな先生が、思わず口の中でお念仏をとなえた。
すると友人は、「君もとうとう念仏をとなえるようになったか、田舎に帰ってしまうと、老人くさくなるではないか」と言った。
その時、彼は仏教の本を彼に差し出しながら、「君に、これがわかるか。」と聞いた。
友人は、むつかしくて、なかなか、わからなかった。
彼は「仏教には、そんな書物が一冊や二冊くらいのことではない。
法門の数は、八万四千といわれ、たくさんの経典が、あるのだ。
そういう裏付けがあって、そういう真理が、ことごとくおさまっているのが、お念仏である。」
と言ったので、友人は恥じ入って帰ったということである。
我々が出会っているお念仏は、それだけの深みがありながら、又、我々の為の真理の働きである。
勿体ないことです。


最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。





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