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平成28年7月
第57話
朝事*
住職の法話
「順逆超えて」
お釈迦さまが、亡くなられたお母さまに説法されたという話が残っております。
釈尊は、お母さまに、こう言われました。
「お母さま!あなたは、人間界においでになったときには、楽しみと苦しみのことより外はご存知なかったでしょう。
これからは、楽しみと苦しみを離れた生活をなされなければなりません。」
「楽しみと苦しみの外知らない生活」ということは、私たちの毎日の生活を考えてみても、誠にその通りであります。
先徳の言葉に、次のようなものがあります。
「小欲知足は安楽の法。
悪いことをしたら、必ず、悪い報いがある。
浮世の快楽は必ず苦しみに終わる。
欲望の馬を気ままにしておいたら、人間という主人公の身を滅ぼし、家庭を破壊し、生命を亡ぼす。
楽しいと思うことには心せよ。
耽
(
ふけ
)
れば後悔、
臍
(
ほぞ
)
を
噛
(
か
)
む。
好きなものは身のかたき。
人間は好きなもので身を滅ぼす。
金と女と酒で、身を亡ぼす。
慎むべし、慎むべし。
欲望を少なくして、親切を尽くし、深く無常を念じて、自信教人信を実行すると、この世が楽しくなる。」
という法語であります。
「悪魔は優しい顔をして、近づいてくる。」ということを聞いたことがあります。
悪魔は、怖い顔して、恐ろしい顔して、近づいてくるのかと思えば、意外と優しそうな顔して、親切そうな顔して近づいてくるというのですね。
不気味ですね。
「悪魔のささやき」という言葉もあります。
「
魔
(
ま
)
」ということも、仏教では、色々な意味に解釈します。
自分の身にも、心にも「魔」がいるのでしょう。
ある先徳は、「他人が自分のことを
騙
(
だま
)
すのではない。自分の心が自分をだますのだ。」 と指摘されています。
自分のこころに騙されて、迷いの道に日々向かっているのが私の生き方なのかも知れません。
恐ろしい気がします。
人生の一つ一つの出来事に、一喜一憂して、振り回されるだけでなく、その中で、順逆を超える道を、仏法聴聞の中から、わが身に頂いていきたいものです。
「自分を離れて仏法はない、仏法は自己の事だ、自己のことを説いている。」
「仏法は、私のことを説いている。」
それを忘れたくないものです。
すぐに他人事にしてしまう私がいます。
「悪いのは、みんな他人で、自分は全然悪くない。年取り、病気になり、死ぬのは、他人で、自分だけは違う。」
どこか、そんな気持ちがないでしょうか?
そんな油断している心に、「魔」がいるのではないでしょうか?
この世の生活は、 「楽しみを求めながら、楽しみを追いながら、
僅
(
わず
)
かばかりの楽しみを得て、苦しみを
避
(
さ
)
けながら、ほとんど苦しみばかりの生活」であります。
「浮世の楽しみは必ず苦しみがつきまとう。」そう考えてみると、人間は、ほとんど、苦しみの生活をしていることになるようです。
お釈迦さまは、「楽しみも苦しみも離れた生活をしなければならない。」と説かれたのです。
人間は、調子が良い時は、すぐに
有頂天
(
うちょうてん
)
になります。
また、ちょっと調子が悪くなると、「何故、私だけがこんな目に会わなければならないのか!」と
愚痴
(
ぐち
)
が出ます。
お釈迦さまは、 「楽しみにも
有頂天
(
うちょぅてん
)
にならず、苦しみにも責められない生活をしなければならない。」 と教えられたのでした。
そうなるには、時間が要ることでしょう。一朝一夕になれるとは思っていません。
だいたい、浄土真宗のみ教えを聞いても、中々わかりにくいと感じることが多いのではないでしょうか?
【もちろん人それぞれで、決めつけられません。】
また、考えてみると、そんなに熱心に聞いているでしょうか?
どれくらい仏法に時間を費やしているでしょうか?
「別に、生活のために追われて忙しいのに、そんな苦労してまで、仏法なんか聞きたくない。」 と言われる方もおられるかも知れません。
しかし、この苦労は、なんとなく、ただの徒労ではなく、「よろこびに裏づけられた苦労」のような気もするのです。
それに、人間はいつかは、死の床につかなければならない時が必ず来ます。
「死の解決をする」ということは、そんなに簡単なことではないのではないでしょうか?
死の床についている自分を思うときに、長い年月に渡って、仏法聴聞を続けていくということは、まるで死の床についた自分が、それを乗り越えていくのに
匹敵
(
ひってき
)
するほどの苦労が要るのは当たり前なのでしょうか?
ある先徳が 「後生のことを心配させて、そのままほっておく親様【仏さま】ではない。きっと解決させてくれるまで命を下さる。」と言われました。
【これは、
懈怠
(
けたい
)
な横着な自分に対する
自戒
(
じかい
)
の言葉です。】
浄土真宗は、「
聴聞
(
ちょうもん
)
」「仏さまの教えを聞くこと」を何よりも、大切にしています。
家族や、身近な人間の死によって、仏法を聴聞するご縁を頂くこともあります。
故人は自らの生命をかけて、人生の真実の姿、「命には必ず終わりがある。」ということを、私たちに教え、示して下さっているのではないでしょうか?
亡き人から、「住職さん、私の葬儀を勤めているけれど、私の死を無駄にしないでくれよ、頼むよ!」と言われているような気がすることがあります。
私も、生前よく知っている方々の死顔を多く見てきました。
「声なき声」と言いますが、まさに、声なき声で、何か無言のメッセージを発信していると感じることがあります。
これだけの人たちを見送るご縁をいただいていながら、何もそこから学ばなくていいのだろうか!
そういう重い問いかけをされていると感じるのです。
「人生は死というものがあるのですよ。あなたはこの問題に対してどう思っているのですか!解決が出来ているのですか!」と問いかけてくる気がするのです。
私の自分勝手な、自我の考えを押し付けたり、他人に強制するのではなくて、「共にみ教えを聞きぬいていく。」ということでしょうか?
しかし、何を言いましても、人間というものは、結局は、「自分が一番可愛い。」という心を離れることが出来ません。
いくらいいことを言っても、そこに、どこかそんなエゴの自分を恥じる気持ちもなければ、足が地から離れていきそうですね。
しかし、この生命をかけた警告を少しでも、大事に思うなら、残された私たちは、故人の死を無駄にしないようにしなければいけないのではないでしょうか?
「故人の死を無駄にしない。」
それは、私にとりましては、「仏法を聴聞すること」です。
故人に何かしてあげる、と言うと、偉そうですが、故人の死をご縁に、私自身が自分自身のこととして、仏法を聴聞していくことしか出来ないと感じるのです。
ある先徳が、「人間に純粋な無我の善は出来ない。仏法を聞くことだけが、人間の出来る唯一の善だ。」と言われました。
これは少し片寄った発言のように聞こえるかも知れません。しかし、折に触れ、思い出すのです。
砺波庄太郎という妙好人がいました。
【※この妙好人については下記ご参照ください。】
「両堂再建 砺波庄太郎」という本から、引用します。
『明治十年の初めに、甥の父親が亡くなった。
急いで庄太郎に連絡したが、郷里に着いたのが葬儀が終わった後であった。
庄太郎は、深く名残惜しい様子であったが、つまらぬことで甥を悲しませるのに気遣いされたのであろう。
黙ったまま仏前に灯明をつけしばらく礼拝を行った後、改めて甥に向かって言われるには
「どうも親のいる内は、なかなか孝行することができないものである。
もはや、お前の親も死なれたことであるから、生きている親には孝行することはもうこれからは出来はしない。
だが、なくなった親には孝行する道がある。
それはよそ事ではない。
お前が信心を得ることじゃ。
そして、立派に信心を得て、うるわしい念仏の行者になり、念仏の行者であった父の後を継いで行くのが、死なれた親に尽くす最も大切な孝行である。」
と熱意を顔に出し、懇々と教えさとされた。
(甥の話によると、年若くて後生の事など考えたこともなく、うつらうつら暮らしていたのをみて、庄太郎さんが暗にいましめて下さったのであろうとのことである。)」
【『両堂再建 砺波庄太郎』より抜粋 】
砺波庄太郎という方には、仏法聴聞の上からにじみ出る言動が、自ずから他人を感化していくようなところがあったようです。
それは、仏法聴聞の積み重ね、聞いた教えを、皆で話し合う、そういうことの繰り返しの中に、育まれてきたような気がします。
そういう素晴らしい伝統が真宗教団の中に、土徳として、引き継がれてきている。
そういう仏法聴聞・教えの談合、という素晴らしい宝を無くしていかないように、努めたいものです。
※妙好人 砺波庄太郎 については下記の如く、本が出版されています。
『両堂再建 砺波庄太郎』
庄太郎の言葉には
「我が家の主人は阿弥陀様なり、わが身は番頭と心得よ」
「我が家に仏壇があると思うな、仏様の家に住まわせてもらっていると思え」
「正信偈和讃は、米のご飯のようなものである。その他のご教化は餅や赤飯のようなもので飽きてしまう。ご飯は飽きることがない」
「信心にとって、朝夕の正信偈や和讃はこれほどよい食べ物はない」
※下記のように復刊計画をいたしましたのでご協力お願いいたします。
そして砺波庄太郎に光を当て、真の真宗門徒として認識を新たにしたいと切望しています。
1冊 1000円にて頒布しています
問合せ先 939−1315
富山県砺波市太田1770
尾田武雄
最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「願い」
あたたかい まなざしに
こめられた願い
---人となれ
大事に生きるんだ
幸せになっておくれ
人間って
大きな願いの中に
育てられているんだネ ああ!
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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